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2002年10月から2003年2月までの経過

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

再び大衆動員

 2002年4月のクーデター未遂の後も、野党勢力はチャベス辞任要求を取り下げなかった。デモとストを連動させてチャベスを辞任に追い込むという方針も変わらなかった。7月に大規模なデモを実施した後、反政府派はしばらく夏期休暇に入ったが、9月から活動を再開した。

 10月10日の反政府デモは、数十万規模の大規模なデモとなり、クーデター失敗後も衰えない反チャベス意識の高さを示した。対抗して与党側が実施した13日のデモも、数十万規模となり、チャベス支持の強い基盤を示した。ベネズエラの国民は、二つに割れている。

 反政府派の中心は、「民主調整者」、「ベネズエラ労働者層連盟(CTV)」、「ベネズエラ商工会議所連盟(フェデカマラス)」の三団体である。民主調整者は、野党と反政府市民団体の連絡組織。CTVは、ベネズエラの組合センターで、昨年秋に選出されたオルテガ会長が率いる。フェデカマラスは経営者団体で、前任のカルモナ会長は4月のクーデター未遂での臨時大統領である。今はカルロス・フェルナンデスが会長だが、反チャベス姿勢に変化はない。

 反政府派は、チャベスの即時辞任と、早期の大統領選挙を要求した。憲法規定は、無視である。10日のデモで、オルテガは16日までに辞任を発表せよとチャベスに迫り、もし容れられないなら10月21日にストライキに入ると宣言した。フェデカマラスと民主調整者もこれを支持した。チャベス大統領は、拒絶した。

 10月21日のゼネストは、平穏かつ成功のうちに終わった。

不穏な情勢

 翌10月22日に軍の将官14人が、チャベス政府の辞任要求と不服従を宣言した。反政府派市民はフランシア広場とアルタミラ広場に集まった。しかし軍隊によるクーデターの動きはなく、政府側も弾圧に出動せず、膠着状態におちいった。

 米州機構のガビリア事務局長が仲介に入り、手詰まりを国民投票を通じて脱出する道を探りはじめた。国民投票を実施することには合意ができたが、それにチャベスの辞任をかけてよいものかが争点になった。憲法は大統領のリコールをかける国民投票は任期半ば(2003年8月)までできないと定めている。政府はそれまで待てと言うのだが、野党はこの規定をを無視した。

 与野党の対話による脱出は、チャベス派の街頭暴力によって破られた。11月4日、国民投票に必要な署名を選挙委員会に届けるデモが実施されたときに衝突がおこり、多数の負傷者が出た。11月8日には、署名集めをしていた反政府派が襲われた。11月12日には、野党のペニャ知事をいただく都庁の入り口をチャベス派が占拠した。このとき、排除にあたった首都警察および国家警備隊(全国警察)と銃撃戦の末、一人が死亡した。

 これら混乱を口実にして、11月16日に、政府は首都警察に介入し、これを一時的に国家警備隊(結局は内務司法省)の下におくことを決め、首都警察に新長官をおしつけようとした。その執行には、国家警備隊と陸軍が出動した。首都警察の職員はこれに従わず、かといって武力での抵抗もできず、業務停止状態におちいった。ふたたび膠着状態である。

石油スト

 12月2日に反政府派は無期限市民ストに突入した。2月の国民投票でチャベスの信を問うことが決まるまで、ストライキを続ける構えであった。参加の広がりは10月ほどではなかったが、前回加わらなかった石油精製部門とタンカーがストライキに入ったので、石油依存のベネズエラ経済には絶大な影響を及ぼした。選挙委員会は、内部紛争の果てに、2月2日にチャベス辞任をかけた国民投票を実施する方針をまとめた。

 12月6日、まだアルタミラ広場で粘っていた人々に対し、銃が乱射され、3人が死亡し、約30人が負傷する事件がおきた。犯人は近所に住む在住23年のポルトガル人で、政府支持者だった。反政府派は怒り、これまで対話と国民投票を主導していた勢力も一致して、大統領の即時辞任を要求した。中・高級住宅街では、連夜鍋たたきと反政府集会が行われた。12月14日にはカラカスで反政府派の総力をあげた大規模なデモが実施された。

 チャベス派も対抗して大規模なデモと市内各地での集会を実施し、鍋たたきを行い、一部は反政府集会の予定場所に陣取って対決した。政府はスト破りを導入する方針を示し、12月15日に、マラカイボ湖の航路を阻んでいたタンカーに国家警備隊と陸軍の特殊部隊を乗り込ませて排除した。

 この状況を見て米国は、クーデター失敗後の内政干渉自粛をあらため、早期選挙がベネズエラにとって一番良い道だと12月13日に言い出した。そしてその考えをベネズエラ人に理解させるために特使を派遣した。だがそれ以上の動きはせず、特使の影響力も表面的には小さかった。しかし、反政府派は、この姿勢変化を4月のクーデター未遂以来の悪評から自分たちが抜け出したと合図だと受け止めた。国際的評判が気になる反政府派市民にとって、米国の変化は励ましになった。

 ストライキの開始時には与党内でも選挙のための譲歩が検討されていたが、野党の強硬化と同時に与党側でも譲歩論は息をひそめた。政府はスト破りに全力をあげた。タンカーからストライキ船員を降ろして代わりの船員を乗せ、スト不支持の労働者の超過勤務で精製所を動かし、ガソリン輸送にはスト破り労働者を新規に雇った。これらは国内の石油需要を完全にはカバーできなかったが、供給はしだいに回復しはじめた。ストライキは国の経済を揺るがしたが、息の根を止めるには至らなかった。 ストの戦後処理

 2月の国民投票は絶望的になってきたため、反政府派内部ではふたたび穏健路線が頭をもたげてきた。1月下旬に石油以外のゼネストの終了を宣言し、2月4日を期して自主的な罷免国民投票「フィルマソ」を行なった。

"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/2002%E5%B9%B410%E6%9C%88%E3%81%8B%E3%82%892003%E5%B9%B42%E6%9C%88%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E9%81%8E" より作成

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