1999年憲法制定過程
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
目次 |
概要
1999年に就任したウゴ・チャベス大統領は、自らの最初の任務を憲法制定会議の招集におき、国民投票を通じてそれを実現した。7月に選挙され、8月に発足した憲法制定会議では、与党議員が圧倒多数を占めた。会議は裁判所の人事に全面介入し、少数与党の議会を停止して、反対派の抵抗を麻痺させた。11月16日に採択された新憲法案は、12月15日の国民投票で投票者の7割の支持を得て承認された。新憲法で、正式国名は「ベネズエラ共和国」から、独立の英雄にちなんで「ベネズエラ・ボリバル共和国」になった
前史
1999年以前のベネズエラ憲法は、1958年の民主化を受けて1961年に作られた。憲法改正議論は、1980年代に国家改革大統領委員会(Copre)の提出した諸改革に関連してなされてきた。それは現行憲法の書き直しではなく、部分改正を意味していた。コプレの提案する諸改革は必ずしも憲法改正にふみこまずとも実現できるように作成されていたこともあり、これまでは1961年憲法の改正は政治議論の焦点にはならなかった(たぶん)。
しかし1998年選挙戦の過程でのウゴ・チャベスの台頭が、憲法改正を中心議題に押し上げた。チャベスは議会を解散して憲法制定会議を招集し、ベネズエラ政治を抜本的に変革すると主張した。これに対抗して各党も憲法改正に言及するようになった。
積極的に対抗改正案を掲げたのは、コペイのアギラ上院議長だった。彼は首相設置を軸とする憲法改正提案を選挙前の年内に行い、きたるべき大統領選挙で当選するであろう非政党的人物と、政党が支配する議会との接着点を作ろうと提案した。彼の提案はもともと類似の提案をもっていた結束の呼応を得たが、自党コペイを含めてほとんどの政党・候補に無視された。他党・他候補は、憲法改正はベネズエラの問題を解決しない、としつつも、通常の手続きによる憲法改正を1999年に実施しようと約束した。
1998年12月の選挙ではチャベスが過半数の得票を得て大統領に当選したが、11月の議会選挙で与党は過半数に達しなかった。改正手続きはとれないことになるが、チャベスは憲法制定会議招集という方法で議会を無視し、解散してしまった。
チャベスの憲法制定発議
チャベスは国民投票によって憲法制定会議設置を決定し、これに憲法改正の全権を与えるという方式を示した。現行憲法の規定にこのような改正手続きはないが、司法最高裁判所は1月にこの方式で問題はないとの判断を下した。チャベスは就任前から憲法制定大統領委員会を作って委員を指名し、可及的速やかな国民投票実施の意欲を見せた。反対するなら議会を解散する、というチャベスの高圧的態度への反発はあるものの、各党とも制定会議の招集に賛同した。
憲法制定会議の権限は、その発足の前から今日に至るまで激しい政治対立の焦点になってきた。対立の背景には、憲法制定過程が議会つぶしと連動していることがある。チャベス与党は、憲法制定会議を行政・立法・司法の全権力の上に立つものとみなし、最高裁を解散できると述べてきた。最高裁はそこまでは認められないという見解であった。
与党の主張は、制定権力全能説にもとづいていた。簡単に言えば、<憲法は人民が制定するものであり、人民の主権は具体的には憲法制定会議を通じて行使される。ゆえに、古い憲法や法律が統治形態や憲法の改正手続きについてどんな規定を定めていようと、憲法制定会議は拘束されない。行政・立法・司法の三権は「制定される権力」であり、これらは「制定する権力」たる憲法制定会議の下にあるのである> というものである。全能説を唱える人は、日本ではごく少数だが、歴史上しきりと憲法をとりかえてきた欧州大陸では有力な議論であるらしい。
諸利益団体も憲法制定会議の設置には賛成した。これは、チャベス政権への国民の高い支持率と呼応している。野党のうち、コペイは賛成を表明したが、民主行動とベネズエラ計画は賛成・反対の態度を明らかにしないままだった。憲法制定会議招集に関する国民投票の投票率は、38%と予想外に低かった。賛成87%、反対7%の圧倒多数で招集に決定した。
憲法制定会議の独裁
続いて、7月25日に憲法制定国民会議議員の選挙が実施された。立候補は政党・市民団体・個人の資格で可能となっていたが、政党からの立候補は与党連合「愛国極」からだけにとどまった。憲法制定会議議員は政党組織を背景にすべきものではないというのが野党の説明だが、一面、既に議会に議席を得ている議員を負ける選挙に投入するのを避けた消極戦術でもあった。投票率はやはり低かったが、選挙の結果、愛国極の候補が128中123議席を占め、チャベス政府の方針に対する国民の圧倒的支持を再び証明した。
8月3日に発足した憲法制定国民会議の議長には、与党第五共和国運動のルイス・ミキレナ前内務大臣が選ばれた。 会議はまず12日に「公権力全機関再編令」を発して、国と地方の全機関の直接改革を行う権限を自らに与えた。19日に「司法非常事態」を発して司法機関の調査に乗り出した。憲法制定会議は直接統治にあたる機関ではないとして反対した最高裁長官ソサ=ゴメスは、最高裁内部で少数派となり、24日に辞任した(ソサ・ゴメス最高裁長官の辞任声明)。この後、制定会議は「司法非常事態委員会(Comisión de Emergenciea Judicial)」、後に「司法制度機能再構築委員会(Comisión de Funcionamiento y Reestructureación del Sistema Judicial)」を指名して司法改革を開始した。汚職や職務不適確を理由に、裁判官の45%が職務から外された。 87人の裁判官は、この審査への出席を拒んだために罷免された。
議会は司法問題を討議するため臨時会期を開いたが、憲法制定会議は翌日ただちに「立法非常事態」を発して議会の会期を停止し、立法権限の一部分を憲法制定会議に移すことを宣言した。議会はこの宣言を無視し、一時期は憲法制定会議と議会の平行状態になった。しかし、執行権を握る政府と憲法制定会議の連合の前に、議会は何の権限もない存在に成り下がり、国政はチャベス派の手に握られた。
三権のうち残る一つ、行政府のチャベス大統領は率先して自らの権限を憲法制定会議に委ねた。与党の州知事も同様に自らの権限を憲法制定会議に譲渡した。全国選挙委員会も憲法制定会議の介入を認めた。これは人を変えるのではなく、憲法制定会議が現行憲法・法律の上にたって各政府・州政府を改革することを認めた儀式である。野党系の知事はこれを拒否した。 憲法制定会議はこれと別個に州知事を対象にして不正調査を開始し、何人かの首を飛ばして愛国極の知事を臨時においた。
憲法制定と暫定議会
こうして他権力を排除した後に、9月から新憲法の実質審議が進められた。3か月後の11月に制定会議は新憲法を採択した。新憲法は12月に国民投票にかけられ、賛成多数によって成立した。翌年1月、憲法制定会議は新憲法体制までの移行方法について取り決めた。制定会議は、暫定議会として「全国立法委員会」を作ってから、解散した。暫定議会の委員長には制定会議の議長ミキレナが横滑りし、その他の委員も制定会議が指名した。
制定会議と同じく、暫定議会も、州知事を汚職容疑で解任した。 結果、野党の州知事は大きく減ってしまった。 政府と暫定議会は結託して重要法律の大改正にとりくんでおり、暫定議会は憲法制定会議と同様の全権をふるった。2000年選挙では与党が過半数をとった。かくてチャベスは憲法制定過程を利用して、当初の少数与党議会を排除し、かわりに与党多数の議会を手に入れた。
憲法制定過程は、選挙によりベネズエラ国民の意思をいちいち確かめる手順を踏んで進められた。しかしそこでなされたことが、政府の専横、法の軽視であったことは否定できない。ベネズエラ国民の三分の一は、支持する政治家・政党の得になるならと法の軽視を認めた。残りの三分の二は、負ける側につきたくないばかりに棄権したのである。
![[メインページ]](/Venezuela/skins/common/images/wiki.png)