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革命的ボリバル運動200

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

Movimiento Bolivariano Revolucionario 200. MBR-200

 陸軍のウゴ・チャベス?を中心にした中・下級将校の秘密組織。1992年に反乱を起こして失敗し、恩赦されてからはクーデターをあきらめ、公然活動に転じて民間人を含めた政治団体になった。1997年に第五共和国運動に改称した。


目次

ベネズエラ人民解放軍

 ベネズエラの軍部は1960年代前半まで大きな存在感があった。かつてベネズエラの政治は軍人独裁者に牛耳られており、1958年の民主化後もクーデターの策動はしばらく止まなかった。1960年には左翼の武装闘争が始まり、静まるには十数年を必要とした。

 1977年と言えば、ベネズエラの政治から軍の影が拭い去られた時期である。当時南米には軍事政権が並び立っていたが、ベネズエラの文民政権は揺るがず屹立していた。ゲリラ勢力は合法路線に戻っていた。この時にあたって、若きウゴ・チャベス?は腐敗した政治を正しベネズエラの人民に献身することを同志三人と誓いあった。これが後の第五共和国運動まで連なる革命運動の源とされる。

 が、筆者には、この時期の陰謀家たちの性根をどこまで本気にしていいものか、良くわからない。まだ続いていたゲリラ鎮圧作戦への不満、軍上層部の腐敗、社会の不平等といろいろ説明はされる。しかしベネズエラは政治的にも経済的にもうまくいっていた。周りの国で流行していたのは右翼の軍事政権であって、チャベスが後に傾倒したカストロ流の行き詰まりは明らかだった。

 ほんの二十年前まで軍事政権があったという国には、少数でもこういう変なことを考える人が出てきてしまうものなのかもしれない。チャベスが作った秘密組織「ベネズエラ人民解放軍 (Ejército de Liberación del Pueblo de Venezuela)」は、特に何をするということもなく秘密に存在し続けた。

革命的ボリバル軍200

 1982年、チャベスと同志たちは、組織の名称を革命的ボリバル軍200 (Ejército Bolivariano Revolucionario 200) と改称した。Eはエセキエル・サモラのE、Bはシモン・ボリバルのB、Rはシモン・ロドリゲスのR、そして200はボリバル生誕200周年である1982年を指すという。シモン・ボリバルは言わずと知れた南米独立の英雄である。シモン・ロドリゲスは彼に啓蒙思想を吹き込んだ家庭教師。エセキエル・サモラは連邦戦争を戦った軍人政治家で、農地改革を約束した人物である。

 人選にはこの集団の左翼的性格が現れているが、その思想が参加将校の間に共有されていたわけではなかった。軍上層部に不満を持つ中・下級将校の小さな集団として存在したが、その中には右寄りの将校も混じっていた。

 ここでEjércitoと訳した「軍」は、厳密には陸軍を指す。違うものもあるが、民族解放「軍」と訳されるラテンアメリカのゲリラ組織の多くは Ejército なので、ここでもそう日本語訳した。参加将校が陸軍にとどまらなくなると、この名前では都合が悪くなり、「陸軍」を「運動」に替えた。「革命的ボリバル運動200」である。

反乱への道

 チャベスが陸軍の学校の教官だったことは、組織の拡大に有利に働いた。ベネズエラ軍は、将校を一般の大学に送り込んで教育を受けさせるという制度を設けており、これが将校たちの政治化を助長したらしい。彼らが大学で接触した左翼知識人の中には、1960年代のゲリラ戦に加わった者も含まれていた。何をどうしようという行動予定はなかったが、軍内の秘密組織はしだいに人数を増やしていった。

 1989年にカラカスで暴動(カラカソ)が起きたとき、組織は何の反応も行動も起こさなかった。暴動はまったくの不意打ちで。、どうすれば良いのかわからなかった。カラカスに駐屯していた軍人たちの中には、上からの命令のまま、暴動を鎮圧する側に回った者もいた。フェリペ・アコスタ・カルレスは混乱の中で殺された。フランシスコ・アリアス・カルデナスは部下の兵士に高級住宅地出身者がいないことを確認し、発砲を禁じた上で出動した。ウゴ・チャベスは幸か不幸か病気で勤務から外されており、家のベッドで寝ていた。

 二千とも言われる死者を残して暴動が鎮圧されると、秘密結社はクーデターに向けて走り出した。左翼活動家と語り合い、政党の中では急進大義(LCR)、人民選挙運動(MEP)、赤旗(バンデラ・ロハ)に接触した。このうち特に重要なのは急進大義で、彼らはボリバル州知事と下院議員3名を擁する新興左翼として勢いを伸ばし、カラカスの低所得層の居住区で住民運動に加わっていた。

 孤立したクーデターは望むところではなかった。まず政府を非難する大衆デモを首都で盛り上げ、ペレス非難の声が高まったところで軍が決起するという筋書きが描かれた。今振り返ると、2002年にチャベス政権に対して起こされたクーデター未遂がそっくりそのままこの筋書き通りである。これは偶然ではなく、両者ともに1958年にベネズエラの軍事政権を倒した民主化クーデターを念頭においたと思われる。そうでなくても、首都の騒擾からクーデターというのはラテンアメリカでは過去にままあることではあった。

 軍人グループは、1992年2月27日に反乱を起こした。大統領官邸を襲撃するチャベスの部隊が勝てなかったため、クーデターは失敗に終わった。各地で呼応した反乱軍を降伏させるため、チャベスはテレビの前に立たされた。そこでチャベスは自らの失敗を認め、同志に投降を呼びかけた。11月にも別のグループが反乱を起こしたが、これまた失敗した。

政党組織に転身

 ペレス大統領は、クーデター未遂は退けることができたが、翌年に汚職事件で辞任に追い込まれた。その年の選挙で勝ったラファエル・カルデラは反乱部隊に同情的で、投獄されていたチャベスを恩赦で釈放した。

 軍籍を剥奪されたチャベスらは、憲法制定国民会議の招集を呼びかける運動をはじめた。文民からは左翼小政党の活動家が集まった。しかし国民の反応は弱く、運動の内部では選挙に打って出るべきだという意見が強まった。チャベスは選挙参加をためらったが、アリアスが単独行動でスリア州知事に立候補し、急進大義の支持を得て見事に当選した。ここにおいてチャベスも自ら選挙に参加することを決意した。目標は1998年大統領選挙である。アリアスもチャベスに協力した。

 1997年10月21日、革命的ボリバル運動200は、第五共和国運動 (Movimiento V República) と改称した。政党法がシモン・ボリバルの名を冠した政党を禁止していたからである。第五はスペイン語で Quinta なのだが、文字にするときはローマ数字で V と書く。スペイン語ではVとBの発音が同じなので、略称MVRはエメベエレで、MBRと同じ読みになる。

"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%AB%E9%81%8B%E5%8B%95200" より作成

このページは 256 回アクセスされました。 最終更新 2006年11月29日 (水) 12:48。 Content is available under 帰属-派生禁止 2.5 .


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