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第五共和国運動

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

Movimiento Quinta República, MVR

 現在のチャベス政権与党で、左翼政党。革命的ボリバル運動200の後身。ラテンアメリカ独立の英雄シモン・ボリバルを精神的指導者にあおぎ、国家と人民を価値として強調する。経済的には新自由主義に反対する。政治的には参加民主主義を唱えるが、その一方で1992年のクーデター未遂実行を誇りにしている。

目次

1998年選挙

 党の創設者ウゴ・チャベスは、現役陸軍軍人のとき、1992年2月4日に政権打倒をもくろんで大統領宮殿を襲撃した、敗北して逮捕・投獄された。恩赦で釈放されると合法野党活動に転じた。党の名ははじめ「革命的ボリバル運動200 (Movimiento Bolivariano Revolucionario 200, MBR-200)」と言ったが、シモン・ボリバルの名を政党名に冠することを禁止するいやがらせの法律ができたため改称を余儀なくされた。1997年以降、「第五共和国運動」である。

 1998年選挙ではチャベスが大統領候補に立った。当初の支持率は低かったが、1997年終わりから1998年初めにかけて急激に支持率を伸ばし、その後も順調に数値を上げていった。チャベスの支持率上昇は他党にも様々な衝撃を及ぼした。第五共和国運動(MVR)は、皆のための祖国 (PPT)・社会主義運動 (MAS)とともに愛国極(Polo Patoriotico)なる政党連合を結成した。

 議会選挙での第五共和国運動(MVR)は、得票率20%、上院14(30%)、下院49(26%)の議席占有で第二党になった。大統領選挙では、58%の得票率でチャベスが大統領に当選した。州知事選挙では連合相手の勝利に大きく寄与したが、自党候補としてはウゴの父デ・ロス・イェレス・チャベスバリナス州で当選しただけだった。3党の愛国極の議席率は上院40%、下院37%で少数与党になった。民主行動(AD)と反目しつつ過半数を制するためには、上院ではコペイ(Copei)、下院ではコペイ・ベネズエラ計画のいずれかと協調しなければならなかった。

憲法制定会議

 1999年1月の議会発足時に愛国極がとった戦術は、民主行動を排斥しつつコペイ・ベネズエラ計画を中立化するというものだったが、議会排斥の態度が野党を刺激し、多数派形成に失敗した。野党3党は議会を拠点に大統領に対抗し、政治対立は「大統領対議会」の構図になった。一方、連立与党の間では政権発足前後から組織合同の主張があり、6月に交渉がはじまった。しかしながらこのときの交渉は同時期の憲法制定会議議員選挙での協力不調の影響で失敗に終わった。

 政権を担う人材としては、文民側からは元小政党活動家のルイス・ミキレナ、ジャーナリスト・評論家のアルフレド・ペニャ、連立与党の有力者などが入閣した。ウィリアム・ダビラなどクーデターを起こした軍人たちも要職に起用された。チャベス当選後に実施されたいくつかの世論調査では、民主行動(AD)に大きな差をつけて政党支持率トップにある。第五共和国運動(MVR)は、投票箱に吹きこむ「風」だけが頼りの他の新党と異なり、街頭動員力を持つの組織政党で、この点では民主行動と共通部分があるかもしれない。

 最大の選挙公約だった憲法制定会議の選挙では、最有力メンバーを送りこんだ。チャベス政権発足時の閣僚から、ミキレナ・ペニャを含めた4人の閣僚が辞任して候補に転じた。第五共和国運動は全国区のトップをペニャ、大統領夫人マリサベル・チャベス、ミキレナの三人で独占し、議席の大半を愛国極が占めた。以後憲法制定会議から、また憲法制定後には暫定議会から、議会と最高裁を屈服させて国家各機関の人事を入れ替えた。2000年選挙では、チャベス再選を果たすとともに、第一党となった。愛国極連立は余裕で過半数を制した。

逆境と反撃

 第五共和国運動(MVR)の前体制批判の中心は、旧体制が政党に支配され国民の意思を無視したというところにあったが、権力を得てからの第五共和国運動は己のための政党支配に邁進した。新しい憲法が政党政治から切り離して市民団体活動家などをすえるために用意したポストを、自党の政治家に与えた。他の細かな点でも、新憲法の条文は第五共和国運動にとって尊重に値しないようで、与党政治家からも憲法厳守を求める内部批判が生まれた。この党の政党批判は、底の浅いものだったようだ。

 2001年後半、絶大な人気を誇ったチャベスは守勢に転じた。国内では組合選挙での敗北、労使合同の12月市民スト、翌2002年1月の反政府デモと、反チャベス運動が盛り上がってきた。さらに2002年2月には軍内部の反対派の存在が表面化し、クーデターの可能性が出てきた。世論のチャベス支持率は低下の一途をたどった。原油価格低迷をうけてそれまで好調だった景気が悪化しはじめた。

 並の新興政党なら、この不人気で支持者から政治家まで逃げに入り、党の凝集力は低下し、チャベスが裸の王様になるところだ。実際、中間的な支持層ややや離れたスタンスにいた政治家は、反政府派に転じた。ペニャの反政府派への転向、ミキレナの引退ゅ後に反政府派へ転向)は特に大きかった。しかし党の力はこの逆境で発揮された。創設数年でありながら、固い組織票があり、動員力がなかなか衰えないのである。単なる個人人気では説明できない現象である。

並行組織

 政権崩壊の危機において、チャベス支持者はボリバル・サークルという組織を地区ごとに作った。彼らの役目は街頭でチャベス派の存在を誇示し、それを通じて革命防衛の任にあたることである。批判者によれば、警察がボリバル・サークルに秘密裏に武器を流し、ボリバル・サークルがパラミリタルパラミリタルとは準軍事組織のことで、南米においては特に、公的な警察・軍隊でもないのに武装化した親政府的な自警団を指す。この状況はクーデター未遂を経てさらに加速したという。それを路上強盗と同一視する者もいる。チャベス派の一部がピストルを振り回して脅迫や道路封鎖に及んでいることは、いくつかの事件から確認できる。だが、4月の銃撃戦とクーデター未遂の経過を見るかぎり、武装民兵が多数存在しているとも考えにくい。正直なところ、私は実態を判断しかねている。

 むしろ別の方向から理解すべきだと私は考える。2002年を通じて、反政府派に、チャベス派のデモは数的にかなわなかった。それでも、チャベス支持の民衆を見せることができなければ、クーデター是認の雰囲気ができあがってしまう。4月のクーデター失敗の最大の要因は軍内部の不一致だが、その根底には民衆に発砲するのを避けたいという軍人の心理があった。実際、街頭に民衆を立たなかったら、そのままクーデターが成立した可能性は高い。ボリバル・サークルの存在意義は、軍部に対し、民衆虐殺を経ないクーデターの可能性はないということを示し、牽制するところにあるのだろう。

 ボリバル・サークルが第五共和国運動の組織でないことには注意を要する。ボリバル・サークルに限らず、チャベス派は政府支持勢力を広く糾合した団体をあちこちに創設して活動している。第五共和国運動がそこで主導的な役割を果たしているかというと、どうもそうとも言い切れない。詳しい調査・研究を手にしていないのでわからないが、社会運動における中核的活動家層は、むしろ他の友党にあるらしい。

 第五共和国運動は、選挙政治では圧倒的に強いが、民衆運動ではそれほどでもなく、しかし末端の動員力はけっこうある、と色々ちぐはぐなものがある。

新党結成へ

2006年にチャベスは新しい政党の結成を語り始めた。第五共和国運動(MVR)と同盟政党の合同によって作るという。2006年大統領選挙が終わってから改めて取り上げ、その党の名を暫定的にベネズエラ統一社会主義党(PSUV)とした。この政党に加わらない与党は連立から離脱させる、という強い態度である。

"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E9%81%8B%E5%8B%95" より作成

このページは 1,451 回アクセスされました。 最終更新 2006年12月20日 (水) 04:02。 Content is available under 帰属-派生禁止 2.5 .


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