社会主義運動
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Movimiento al Socialismo. 他の訳語: 社会主義運動党
元は急進的な社会主義政党。1980年代に社民化した。2001年までチャベス政権の与党だったが、野党に転じた。
1971年にベネズエラ共産党(PCV)の武装闘争路線から転向した人々によって作られ、当初は急進的左翼イデオロギーを強調していた。全国政治への本格参入にともなって、穏健化していった。左翼的中間層、知識人・学生の間では広い支持を得た。 同じ左翼の急進大義(LCR)とは、「右」との妥協や連携に抵抗がない政治スタイルと、労働者の間で支持が弱い点で異なっていた。
社会主義運動は1993年の選挙でラファエル・カルデラを支持し、第二次カルデラ政権(1994年 - 1999年)で国民結束とともにはじめて与党になり、テオドロ・ペトコフ計画調整大臣・ポンペヨ・マルケス国境大臣などの閣僚を出した。
与党として、「ベネズエラ議題」による経済政策の右旋回を経験した。その柱は、大規模な民営化である。転換の先頭に立ったのはペトコフであった。ペトコフはドイツ社会民主党を念頭において、市場経済と規制を組み合わせた新しい穏健左翼を構想していた。民営化に際しては公共性・労働者に配慮した条件をつけるというところで、新自由主義者との違いを出したつもりだったが、ベネズエラへの適用には問題があった。ペトコフが自分より右だと意識していた市場万能・規制無用と言い切るゴリゴリの新自由主義者は、この国では政治勢力として非常に弱かったのである。ベネズエラでは、真正の自由経済主義者は、1989-1993年に大統領の庇護下にあるテクノクラートとして生存したが、その後の政治の荒波の中で消え去っていた。ベネズエラの右翼政治家は、市場の力を重視しつつも、規制を取り入れ、保健・教育支出にも配慮すると約束していた。ぺトコフが目指したのはこれとまったく同じである。これでは左翼としての存在意義はどこにあるのか。
このことが1997年の党内対立の遠因となった。長い間他党に対する厳しい批判をこととしてきた社会主義運動が、政権参加後に従来と大差ない経済政策を他党と協調して実施したために、党組織の苛立ちが高まったのである。
1998年選挙では、ウゴ・チャベスを大統領候補に擁立しようとする提案が、党内に激しい対立を引き起こした。ムヒカ党首やレオポルド・プチ書記長が代表する党組織が、左翼政党としてのスタイルをとりもどそうとして、チャベス支持に結集した。政府参加組のペトコフとマルケスらは、民主主義擁護の立場を守ろうとして、チャベス擁立に反対した。
結局6月に社会主義運動はチャベス支持を決定し、第五共和国運動(MVR)・皆のための祖国(PPT)と三党で政党連合「愛国極」を結成して選挙戦に臨んだ。党創設者のペトコフは7月に単独で脱党した。マルケスはしばらく様子見を決めこんたが、やがて離党した。これによって、執行部への反対派は結集軸となる人物を失い、内部分裂は当面は収束した。
チャベス当選により、社会主義運動はひきつづき政府与党にとどまった。議会内での勢力は大きく後退したが、政権発足時の閣僚配分では議席数に比して大きな配分を受けとった。プチ・ムヒカの党執行部は、これまで愛国極との協同を最優先にしてきた。が、1999年6月にムヒカ党首が労働家庭大臣を辞任して憲法制定会議議員に立候補したときに、愛国極の協力を得られなかったことに党は衝撃を受けた。愛国極の許可なく立候補したのが許せないというのが、第五共和国運動の言い分だった。
この機をとらえてエスクルピ下院議員、デパオラ上院議員らの党内反対派が「民主左翼」を作って分離した。党執行部が党員や議員をないがしろにしていることを批判したが、与党との連立への不満が理由だろう。
1999年7月の制定会議選挙で、社会主義運動単独からの立候補となったムヒカ党首は惨敗を喫した。世論調査でも裏付けられる社会主義運動独自の得票力の低下が、実際の選挙で証明されたものと言える。比較的人材豊富な社会主義運動は得票力に欠け、得票力がある第五共和国運動は経験を積んだ人に乏しいというのが、1998年から1999年にかけての愛国極の構造であった。
連立内部・党内部の抗争は制定会議をもっていちおう収束した。ムヒカ・プチ執行部は憲法制定会議で愛国極与党としての立場を継続し、2000年選挙にも同じ方針で臨んだ。党は選挙ではおおよそ現有勢力を維持し、沈没を免れた。国民議会ではプチが副議長に選ばれた。
2001年の年明けから、社会主義運動と大統領・第五共和国運動の関係は冷たくなってきた。連立離脱をほのめかす発言があり、チャベス支持派との党内対立で微妙な時期を経て、最終的に野党に転じた。チャベスへの支持率低下が影響しているのだろう。急進社会主義から出発して20年で市場重視にまで右傾化したことを思えば、この程度の変わり身も驚くには値しない。
2002年後半には、党の反政府姿勢は鮮明度を増した。12月ストに臨んで、プチ書記長は、チャベス相手には交渉などできないから、街頭行動で早期選挙をおしつけるのだと述べた。プチによれば、最高裁は政治権力の一部であり、憲法裁判は力関係でどうにでもなる。議会は、その外に政府と反政府派との対話会議がもたれた時点で解散されたも同然になった。議席の過半数を握る与党が妨害するから、議会を通じて危機を解決することはできない、と。[EN:12/01] ベネズエラの司法と議会の限界を正しく分析したのはよいが、自党がせっせとこの状況を作り出したことへの釈明も、克服の展望もないのだった。
社会主義運動がもとからこういう無内容な政党だったわけではない。激しく路線を転換するたびに、それまで持っていた綱領・政策が振り落とされ、権力ゲームの愉しみだけが残ってしまったのだと思われる。
![[メインページ]](/Venezuela/skins/common/images/wiki.png)