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皆のための祖国

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

Patria Para Todos, PPT。他の訳語: みんなのための祖国

目次

急進大義からの分裂

 1990年代に急成長をとげた急進大義は、アンドレス・ベラスケスのもとで急速にその政策を穏健化させた。一部で企業家の支持を受けるようになり、マスコミ受けもよくなったのだが、もともと革命政党として出発した組織であるから、路線転換は簡単にはいかなかった。急進派の代表は、パブロ・メディナであった。

 1997年に党が分裂したとき、両派はともに「急進大義」名を受け継ぐことを望んだが、全国選挙委員会の裁定でベラスケス派が名前を継承することになった。パブロ・メディナ、アリストブロ・イストゥリスらは、新たに「皆のための祖国」を結成した。「党」と名乗らないのはベネズエラで政党が不人気なためである。「祖国」とは左翼らしからぬ用語だが、これでグローバリズムに対する抵抗を表しており、祖国のために皆か尽くすというのではなく、祖国が皆のためにあると言うところに左翼的メッセージがある。そういう断り書きを抜きにしても、ラテンアメリカの左翼はナショナリズムと親しいので、違和感はない。

チャベス与党としての出発

 1998年大統領選挙ではウゴ・チャベスを支持して「愛国極」という政党連合を結成した。この年の議会選挙では急進大義ともども大敗したが、州知事選挙ではチャベスの第五共和国運動社会主義運動の協力を得て州知事3人、市長3人を当選させた。州知事は、アンソアテギ州アレクシス・ロサスグアリコ州エドゥアルド・マヌイットバルガス州アルフレド・ラヤである。勝ちはしたものの、自党経由の投票は半数に及ばず、第五共和国運動に依存する構造がはっきり現れた。

 チャベス政府の初年には、チャベスの掲げた方向をもっとも強硬・忠実に推進した。愛国極の結束を最重視し、三党の組織合同にも積極的だった。しかしながら第五共和国運動の愛はそれほどではなく、憲法制定会議議員の候補選定で、相談なしに急進大義と選挙協力を取り決めた。怒った「皆のための祖国」は激しく反対してこれをとりやめさせた。三党合同の話はこの衝撃で流れた。

 閣僚入りした人物には、エネルギー鉱山大臣のアリ・ロドリゲス、インフラストラクチャー大臣のフリオ・モンテスがいる。しかしもっと重要なのは憲法制定会議副議長のアリストブロ・イストゥリスであろう。憲法制定会議は1999年から2000年にかけて法の上に立つ絶対権力をふるったので、その副議長は要職であった。

2000年選挙での不和

 愛国極の中で、第五共和国運動は強大な党勢と不足ぎみの人材という不安定要素を抱えていた。党の候補になれば当選できるという情勢と、実績がないのは皆同じという事情が重なって、立候補争いが激しくなったのである。2000年選挙が近づくと「皆のための祖国」の割り当てを侵食して立候補しようとする動きも強まった。

 結局、候補調整をめぐる摩擦から、皆のための祖国は、連立を維持しつつ選挙協力をとりやめるという複雑な行動をとった。大統領選挙でも、実質的にチャベスを支持しながら、形式的には支持しなかった。「皆のための祖国」は形式的には野党として2000年選挙に臨んだ。

 結果は、というと、意外にも全滅はしなかった。グアリコ州でマヌイットが踏みとどまり、アマソナス州を獲得して州知事は一人減っただけだった。アマソナス州は人口希薄だが、州は州である。市長は15人が当選して大躍進である。しかし国民議会議員はゼロになった。「皆のための祖国」は人材豊富だが、党としての人気は第五共和国運動に及ばない、ということらしい。第五共和国運動はその逆で、人気があるが人材に乏しい。

 選挙後の党は、政府に対立したわけではない。いくつかの政策に反対したが、与党に戻りたいという気持ちははっきりしていた。労働運動では第五共和国運動とともに「ボリバル労働勢力」を作り、民主行動中心のこれまでの労働組合幹部に対抗した。しかしここでも片思いの相手に搾取される構造があり、合同組織の中で第五共和国運動に追い抜かれてしまった。

連立復帰

 2002年1月、チャベス政権に対する反対運動が盛り上がりを見せる中で、皆のための祖国は与党に復帰した。アメリカ合衆国が公然チャベス批判に乗り出す中で、チャベスはベネズエラ石油公社の総裁にアリ・ロドリゲスを任命した。石油会社の職員は政治人事に猛反発した。ベネズエラ労働者総連盟(CTV)と商工会議所連盟(フェデカマラス)の連合で、ゼネストが起きた。そして事態は1992年4月のクーデター未遂へと展開していった。ロドリゲスはその後も石油公社に君臨し、2002年石油ストに直面した。一連の闘争の指揮官はチャベス大統領その人で、ロドリゲスは忠実な部下の役回りを果たした。

 アリストブロ・イストゥリスは、教育文化スポーツ大臣になった。特に教育の普及に力を入れて、2003年から政権の目玉の政策となった教育特別プログラムを推進した。しかしパブロ・メディナは2002年に反チャベス陣営に加わり、党から抜けてしまった。実質的な政界引退である。

 2005年12月の選挙では、10議席を獲得して連立与党としての存在を示した。他の大臣が頻繁に交替させられる中、イストゥリスは教育相として健在である。

"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/%E7%9A%86%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%A5%96%E5%9B%BD" より作成

このページは 398 回アクセスされました。 最終更新 2006年12月2日 (土) 04:41。 Content is available under 帰属-派生禁止 2.5 .


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