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民主行動

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

Acción Democrática。社会民主主義政党。

石油ナショナリズムと近代化政策を標榜する多階級政党として、1941年9月13日に創設された。前身は国民民主党(Partido Democrático Nacional, PDN)である。国際的には社会民主主義陣営に属し、社会主義インター内では第三世界の数少ない社民与党として高い地位を占めていた。 現在はチャベスに敵対する野党第一党である。

ベネズエラ民主化の立役者

 党の前身である国民民主党は、軍人独裁者フアン・ビセンテ・ゴメスの支配に対する非合法の反対運動から生まれた。ゴメスの死後、後継政権が政党活動を自由にすると、地下や国外で活動していた人々が公然と政党組織を作り出した。当時の野党には共産主義の流れと非共産主義の流れがあり、国民民主党から民主行動に至る流れは後者である。

 ロムロ・ベタンクールら非共産主義者がめざした目標は、実は共産主義者とあまり変わらなかった。ともに革命を通じてのベネズエラの進歩を目指し、ずっと将来は社会主義を目指すが、当面の課題はもっと低くとらえていた。ベタンクールと共産主義者の違いは戦略・戦術面にあった。ベタンクールの考えでは、ベネズエラではプロレタリアートの力が弱いので、西欧型の階級政党を目指しても成功の望みは薄い。多階級政党を建設しなければならないのであった。労働者を重視した共産党に対し、民主行動は組織化の努力を農民や中産階級にまで広げた。

 1945年の軍事クーデターの後、ベタンクールが臨時大統領として政権を委ねられ、政権与党になった。民主行動はこの「三年」時代に農地改革を含む諸改革を断行し、農民と労働者の支持を固めた。 この政府は教育と保健を全国に広めるために努力を払った。が、党と国家を混同し、他党を圧迫する振る舞いが目だったとも言われる。そのあたり、何やらチャベス政権に似ている。

 1945年の大統領選挙では、ロムロ・ガジェゴスを当選させた。しかし改革への反発から1948年にクーデターで転覆された。民主行動は以後の10年間、ペレス・ヒメネスの独裁に抗する非合法政党として活動した。

 民主行動は1958年革命で復帰し、ベタンクールを新体制最初の大統領に当選させた。ベタンクールは共産党ぬきの諸政党協調を主導して以後の民主主義体制を固めた。

党分裂と二党制

 しかし、実業界や他党の協力と引き換えに、民主行動は社会改革を三年時代の水準で停止させた。革命の地下活動を主導した若い党員はこれに不満を持ち、1959年に分離して革命的左翼運動 (MIR)を作り、武装闘争で体制に挑戦した。革命的左翼運動と左翼勢力の武装闘争は敗北した。続いて1962年には党の中堅幹部がAD反対派を作って分離した。これは大きな影響力を持つことなく消滅し、ほとんどの党員が復帰した。左翼ゲリラはキューバ革命をモデルとしており、キューバ関係は悪化した。裏返せぱ、ベネズエラは資本主義 - 自由民主主義側のモデルとしての位置付けを合衆国に与えられており、対米関係は良好だった。

 右翼の側も黙ってはいなかった。政府は度重なるクーデター未遂に脅かされ、ベタンクールに対する暗殺計画も繰り返された。歴史家は、ベタンクールの業績の一つに、「無事任期をまっとうした」というただそのことを挙げている。

 ベタンクールの後は、彼の盟友ラウル・レオニ?が大統領候補となり、当選を果たした。基本的にはベタンクールの政策が継続された。彼の時代には、次期大統領選挙をめぐって改革路線と協調路線との間の対立から、改革派が1967年人民選挙運動 (MEP)を作って分離した。この結果、直後の大統領選挙でコペイが漁夫の利を占めて当選を果たし、民主行動の一党優位は崩れた。

 民主行動は野党にまわってもコペイとの協力関係を維持した。野党の間に人民選挙運動の押えこみに成功し、次の1973年選挙でカルロス・アンドレス・ペレス (CAP)によって政権を奪回した。従来は多党制・ないし一党優位政党制とみなしえた政党システムが、はっきりと二党制と見て取れるようになったのは、この時である。ペレス政府は、石油価格高騰をうけて工業に投資し、石油国有化を実現し、政労使三者委員会による政策協議をはじめ、ついでに対外債務を積み上げた。1990年代までベネズエラ政治に特徴的とされてきた諸制度・慣行は、ペレスのもとで作られたと言えるだろう。後、コペイのエレラに譲り、自党のルシンチで奪回し、ついでペレスがふたたび政権につき、とベネズエラの政党システムは民主行動とコペイの二大政党制になった。 ↑ 1998年選挙 †

 ベネズエラ経済が債務重圧下で停滞を続ける中、ペレスは1988年に再選された。翌年就任したペレスは、新自由主義的「大転換」を標榜し、第一期ペレス政権の時代に作った制度の抜本改革に取り組んだ。しかしペレスの突然の転換は国民にも自党にも説明ぬきで行われたため、各方面から猛烈な反発を受けた。1989年2月のカラカソ(カラカス暴動)、1992年の4F反乱(チャベスのクーデター未遂)がその最大爆発である。民主行動内部にもペレスへの反対がうずまき、この政権期中、党の動揺が激しかった。結局ペレスは汚職疑惑で大統領から引き摺り下ろされ、党から分かれて「開放(Apertula)」を結成した。

 民主行動の議会勢力は堅調だったが、政党支配制(partidocracia)批判の風を真っ向から浴びたため、以後の大統領選挙ではふるわなかった。1993年に民主行動は若きカラカス市長クラウディオ・フェルミンを擁立したが、カルデラに敗れた。これは前政権への反発の余波を思えば当然である。次の1998年には知名度が低い老党人ルイス・アルファロ・ウセロがフェルミンを追い出して立候補した。アルファロがまったく支持を得られなかったために、党執行委員会は彼をどたんぱで除名してエンリケ・サラス・ロメル支持に乗り換える離れ業を演じたが、なおかつ敗北した。

 1970年代以降の民主行動は、農村部で強いが都市部で弱いという組織構造をもっており、都市部で得票するのはCAPやフェルミンのようなカリスマ的な魅力を持つ個人政治家の役目になっていた。与党になると党組織と大統領政府の間の摩擦を生みもしたが、選挙での勝利においては両者が補いあっていた。1998年に、組織票だけでは大統領選挙に勝てないことを、アルファロは自らの没落によって実証してしまったのである。

党の混乱と底力

 1999年発足のチャベス政権は、ベネズエラのこれまでの政治に対する革命を己の使命としており、旧政党の代表である民主行動には徹底して敵対的である。民主行動もこれに真っ向から応じてチャベス「独裁」を非難した。

 だが、党の政治指導は、事情に通じない私の目から見ても愚劣としか言いようがなかった。憲法制定会議に対して、民主行動はあえて反対はしないが国の問題を解決する役には立たないという態度をとった。国民投票では態度を表明せずに自主投票にまかせた。制定会議議員選挙では党からの推薦候補を立てず、党員からの立候補は個人の立候補として、自主投票にゆだねることを決めた。最大野党が選挙戦から降りてしまったために、二つの選挙は政府側の圧勝に終わった。ついで制定会議が立法・司法権力に介入しはじめたときに、ルイス・ペレス書記長は司法に対して手をつけるのには賛成だという意見を表明した。政治力のない最高裁がまず標的にされ、ついで司法のお墨付きを背景にして議会停止を正当化するというチャベス側のごく簡単に予想される戦術を露払いする発言だった。

 党勢の凋落と情勢の変化に対応しないことへの反対から、制定会議議員選挙直後に党内に反乱が起こった。フェルミンの後に首都市長となり、やがては大統領候補にもと考えられていたアントニオ・レデスマが、党書記長に名乗りをあげて現執行部の退陣を要求した。彼にはこのままでは市長再選も危ういという危機感があったかもしれない。しかしルイス・ペレス書記長は責任をとって退陣し、後任にザンブラノを推して選挙を避けるという策略をとった。レデスマはいくらかの議員とともに党を割り、「勇敢民衆同盟」を作ったが、勢力はごく小さかった。結果として、カラカスは第五共和国運動に奪われてしまった。フェルミンに続きレデスマを追放したことで、民主行動は次世代の大統領候補と目されていた人材をまったく失った。

 2000年選挙で、民主行動は大統領候補を立てられなかった。にもかかわらず議会選挙では第二党の勢力を維持した。特に農村部で健在である。民主行動の議会選挙での強さは、逆に言うとサラスアリアスメンドサのような個人候補の議会での弱さでもあり、互いに足をひっぱりあって総合的にチャベスの強さを作り出している。民主行動の方針のぐらつきは組合国民投票でも再現され、同党は自党の支持基盤への攻撃に対してあいまいな反応を示すにすぎなかった。2000年12月におこなわれた最高裁判事の指名では、他の野党を出し抜いて与党と取り引きし、自党の指名割り当てを得た。

 下降線をたどった党勢の底入れは、2001年の組合選挙ということになるかもしれない。新しくなったベネズエラ労働者総連盟 (CTV)会長に、オルテガが当選した。1998年以来、選挙のたびごとに圧倒的優位を示してきたチャベス派の、初めての敗北である。組織労働者は反チャベスであり、その枢要にあるのは民主行動なのである。以後、2001年から2002年にかけての反政府デモにおいて、民主行動は最大野党としての実力を発揮した。これまで、党の組織力を腐敗幹部の支配のせいとみなす見解が、チャベス派だけでなく多くの政治分析者に共通してあるが、私は(幹部支配の実態を告発する例はいろいろ知っているが)民主行動へのちゃんとした支持はずっと存在していたと考えている。私が思うに、街頭動員力において、旧勢力の代表たる民主行動と、新勢力の第五共和国運動は、他党の追随を許さない。対立する両者は、微妙に似かよっているようだ。

"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E8%A1%8C%E5%8B%95" より作成

このページは 596 回アクセスされました。 最終更新 2006年11月29日 (水) 12:46。 Content is available under 帰属-派生禁止 2.5 .


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