民主共和連合
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Unión Republicana Democrática, URD
中道左派の小政党。1960年代まで有力野党だったが、今は議席がない。
反体制野党
1945年の民主化の直後、1946年に創設された。党の指導者はホビト・ビジャルバ (Jóvito Villalba)で、ゴメス独裁に抗して民主化運動を進めた中の一人である。ビジャルバは非共産主義反政府勢力での指導権をロムロ・ベタンクールと競ったが、民主行動(AD)を率いたライバルに遅れをとった。この民主化の後、圧倒的支持を背景にことを強引に進める民主行動に反発して、野党に転じた。
1948年の軍事クーデターが起きたとき、民主共和連合(URD)は、クーデター政権が選挙を通じて政権を民主行動(AD)以外の政党勢力に委譲してくれるのではないかと期待した。クーデターの指導者ペレス・ヒメネスは、その期待をさんざん引き伸ばしてから、1952年に大統領選挙を用意して自ら立候補した。ビジャルバはこの選挙で勝ったのだが、選挙結果をごまかされて負けたことにされてしまった。怒った民主共和連合(URD)は非合法活動に転じ、民主行動(AD)と協力して反政府活動を遂行した。
プントフィホ協定の一翼
1958年の民主化では、民主行動(AD)、民主共和連合(URD)、コペイ、ベネズエラ共産党(PCV)が有力四党として並び立った。このうち共産党を外した3党は、選挙結果に関わらず連立政権を作ろうと約束するプントフィホ協定に署名した。このときの大統領選挙ではベタンクールが勝ったが、民主共和連合(URD)は国の中部で健闘した。3党は約束通りに連立内閣を作った。
しかし、民主共和連合(URD)の内部には昔から左右の対立があり、この頃とりわけ左派の影響力が強まっていた。ビジャルバの指導力は揺るがなかったが、左派にルイス・ミキレナやホセ・ビセンテ・ランヘルがいて政権を批判した。党もやがて連立から離脱した。
民主共和連合(URD)の舵取りの難しさは、イデオロギー的・政策的位置が民主行動とぴったり重なってしまうところにあった。もともとベタンクールとビジャルバの間には思想的対立がなかったので、ある程度まで当然ではある。しかし困ったことに党内の左右対立の幅まで民主行動と同じで、身動きがとれないのだった。結果的に、民主行動に反対する人々はむしろ右のコペイに惹きつけられた。1963年選挙でコペイに抜かれて3位になった。このときは次のレオニ政権に加わって存在感を示したが、続く1968年選挙で大敗し、二度と立ち直ることができなかった。
めだつ業績はあげられなかったが、ベネズエラに民主主義を確立させ、守り通した功績は誰にも否定できない。与党と野党がともに民主的でなければ民主主義は機能しないからである。
小政党
党の没落により、ミキレナは政界から引退し、ランヘルは有名だが政権とは縁のない左翼政治家として生きることになった。二人は党を離れてから何十年も後にチャベス政権で復活するが、それはもう民主共和同盟(URD)と何の関係もない話である。
現在の民主共和連合(URD)は、議席を一つも持たない小政党である。1998年選挙ではひきつづき議席ゼロ。大統領選挙ではルイス・アルファロ・ウセロを支持し、民主行動(AD)の擁立取り下げ後も彼に忠実な支持を与えた。チャベス政権に対しては反対の立場をとり、反チャベス派の政党の一つに常に名を連ねている。
![[メインページ]](/Venezuela/skins/common/images/wiki.png)