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急進大義

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

La Causa Radical, LCR o Causa R 他の訳語:カウサR、急進正義党。

 労働組合を母体にして設立された左翼政党。1994-1999年議会では議会第三党だったが、1998年選挙では大敗した。

目次

革命政党と現場の活動家たち

 1960年代に武装闘争に失敗したベネズエラ共産党を見捨てた左翼急進主義者は、1971年社会主義運動 (MAS)を結成した。彼らは武装闘争に見切りをつけて別個に社会主義への道を求めることにした。しかしこのとき、結党大会に参加したアルフレド・マネイロは、社会主義運動の穏健路線に飽き足らず、早々に脱退して1973年に新しい政治組織を作った。それが急進大義である。

 急進大義は、Causa R、Causa R、LCR と略される。R はラディカルの R で、急進的・根源的といった意味だが、党の旗揚げに加わった面々にとっては、レボルシオン、革命の R でもあった。マネイロは革命勢力を構築する前衛政党を望んだ。が、とりあえずはどの国にもどこにでもあるが誰も目を留めない小さな政治団体にすぎなかった。

 政党と呼ぶにはあまりに小さい急進大義は、選挙に打って出ることは考えず、革命的な大衆を組織することに全力を注いだ。その組織化において独特と言えたのは、党のイデオロギーを注入し、党の指導に従う勢力を築くことより、活動そのものに打ち込んだことにあった。運動の現場主義である。マネイロは1960年代にゲリラ指揮官として戦い、身に付けた革命的イデオロギーに揺らぎはなかったが、革命の前衛を構築するに際して教義宣布を重視しなかった。

 結果として、急進大義は各々の社会運動の中で、誠実で献身的な活動家を多数擁することになった。彼らは党の指令で態度を変えない。党はそういう服従を求めない。小さな運動を大きな政治のために犠牲にすることはない。右から左まで政党の影響と指導が染み渡っていたベネズエラの政治・社会運動の世界で、急進大義の態度は独特で、新鮮でもあった。

 とはいうもののその活動は地味だった。社会主義運動が知的でラディカルな言葉遣いで学生と知識人の人気を集め、すぐにも社会主義を、と景気のいいことを言っていたとき、急進大義の活動家は大政治に背を向け、貧民街と職場の中で闘いを続けていた。

労働者の地方政党

 急進大義の成功は、東南部のシウダーボリバル市の鉄鋼労働者が作り出した。国有鉄鋼会社の労働組合はもとは民主行動系だったが、急進大義のアンドレス・ベラスケスを指導者に立て、ストライキに打って出た。しかしここで、民主行動が支配する上部団体「ベネズエラ労働者総連盟?(CTV)」が組合人事に介入し、急進大義の組合幹部を解任してしまった。代わりの組合役員は総連盟が任命した。1981年のことである。

 ベラスケスと急進大義は怒ったが、我慢した。なおも労働者の間で活動を続けた。やがて総連盟の委員長が代替わりして非常措置を解除し、ふたたび組合員からの選挙で役員が選ばれたとき、急進大義のメンバーは圧倒的支持で執行部に返り咲いた。

 1982年にマネイロが死ぬと、ベラスケスが党のもっとも有名な指導者になった。ただし、党は一貫して分権的な組織をとっていたため、ベラスケスの方針で党がまとまったわけではない。それで内部抗争が起こるでもなく、皆がばらばらにそれぞれの活動を進めるのが、この党の特色であった。

 ベラスケスは1989年ボリバル州の州知事選挙に立候補して当選した。地方都市の労働組合が全国から喝采され、仲間の中から州知事を送り出したのは、まさしく事件であった。実のところベネズエラでも旧世代の政治家には社会の底辺からの叩きあげと言える経歴の人が少なくないのだが、1980年代は時代状況が異なる。

カラカソと反乱謀議

 ベラスケスが州知事選挙になれたのは、民主行動のカルロス・アンドレス・ペレスのおかげである。1989年まで、ベネズエラの州知事は大統領による任命制だった。ペレスは民主主義を推し進める制度改革を志し、就任早々に州知事公選を実現した。その選挙でベラスケスは党の唯一の州知事になったのである。

 しかしペレスは同時に、急進大義にとって憎むべき敵でもあった。ペレスが進めた政策は自由化と経済開放で、左翼の急進大義とは相容れないものがあった。それだけでなく、ペレスは[[カラカソ]暴動を鎮圧するために、軍隊を投入して数百の市民を裁判なしで殺した。もとになった暴動に左翼政党は関わっていなかったが、軍はどさくさにまぎれて左翼の活動家を殺してまわったらしい。急進大義はカラカスの貧困層の間で活動しており、このときの弾圧を肌で感じた。貧困層に浸透できずにいた他の政党にとってカラカソはまず第一に貧民による略奪事件であったが、急進大義にとって記憶すべきは軍による虐殺であった。

 ベネズエラには、カラカソに関わって衝撃を受けた集団がもう一ついた。ウゴ・チャベスを中心にした軍内不満分子である。もとから左翼がかっていた彼らは、軍による民衆虐殺という事態に存在意義の根本に関わる衝撃を受けた。彼らは反乱の陰謀を進めて急進大義と接触をもった。

 党の新聞を編集していたパブロ・メディナは、反乱計画に積極的だった。しかし州知事として政策を穏健化させていたアンドレス・ベラスケスは、この博打に反対した。結局ベラスケスの意見が通り、急進大義は協力を断った。1992年にチャベスが反乱を起こして失敗すると、急進大義は関与の事実を隠したまま、クーデター未遂を非難した。

党の絶頂と分裂

 1993年大統領選挙にはアンドレス・ベラスケスが立候補した。この年、ペレスは汚職事件で辞任に追い込まれたが、二大政党の候補はいずれもペレスの改革路線を継承することを約束した。ペレスの政策に反対したのは、社会主義運動?・国民結束の連合になるラファエル・カルデラと、急進大義のアンドレス・ベラスケスだけだった。しかしこの選挙では二大政党による不正があった。どのくらいの規模だったかはわからない。わからないが、実はベラスケスが勝っていたのではないかと噂された。公表された結果ではカルデラが1位で当選し、ベラスケスは4位で落選した。議会では下院で40議席を擁し、民主行動とコペイに次ぐ3位になった。

 しかし、大躍進をとげたこの時期に、党内ではベラスケス派とメディナ派の内部対立が深刻になっていった。主流のベラスケスは行動でも政策でも穏健化に向かい、左翼的性格を弱めようと考えた。メディナらは急進左翼としての性格を保ち続けようとした。1997年に党は真っ二つに分裂し、メディナ派が「皆のための祖国 (PPT)」を結成した。

 1998年大統領選挙で、ウゴ・チャベスを支持した「皆のための祖国」に対し、急進大義はイレネ・サエスを後援した。イレネは実務派の市長として人気があったが、決して左寄りとはいえなかった。イレネがチャベスに対抗するための支持を求めてコペイと提携すると、急進大義はイレネ後援を取りさげた。他に推せる候補がない急進大義は、労働運動出身の自党政治家アルフレド・ラモスを立てたが、こんなどたばたの後では支持を広げようがなかった。ラモスは得票率0.1%で敗れた。議会勢力も大きく後退し、小政党に転落した。勢力を失ったのは「皆のための祖国」も同様であった。

中間派のマヌーバー政党

 新しくチャベスが率いた左翼政権に対して、急進大義の態度は複雑なものがあった。分裂した「皆のための祖国(PPT)」との協力は考えられなかったが、チャベスの政策には党として異議を唱えたくないものが多く含まれていた。野党のうち民主行動コペイはこれまで急進大義が厳しく批判してきた相手であり、ベネズエラ計画は経済政策で相容れない。急進大義の態度は最初のうち不鮮明だった。

 2000年大統領選挙ではフランシスコ・アリアス・カルデナスを後援した。急進大義はアリアスをスリア州知事の頃から推していたが、彼は基本的に独立系の候補である。急進大義は議会選挙でさらに党勢を後退させ、下院3議席にまで落ち込んだ。

 再選を果たしたチャベスが、労働組合役員の再選挙を国の管理下で行おうとしたとき、急進大義はこれに反対した。急進大義も腐敗した組合幹部をずっと攻撃してきたが、組合民主化を政治権力を用いて行うことには賛成できなかった。組合主流派とは一線を画しつつチャベス派の動きに反対し、ぎりぎりのところで主流派と連合した。2002年の政治対立激化で急進大義はしだいに政府批判を強め、2003年からチャベスがスト参加者や反対派政治家の追及・弾圧をはじめると、反チャベスの旗幟を鮮明にした。ここまでの党は、国家から自立した社会運動の守り手として原則を貫いたと言える。

 急進大義は、他の野党とともに民主調整者という反チャベス戦線を構成する。反チャベス陣営に加わったのが遅れたため、野党の中で地位を高めるのは容易ではない。ここでも急進大義は旧二大政党から距離をおきつつ行動したが、その結果右翼陣営のベネズエラ計画正義第一と提携することになり、それを正当化するために政策主張を薄めて反チャベス戦線の統一を説くことになった。

 議席数だけを見れば昔に逆戻りしたと見えるが、昔と今で急進大義はまるで別の顔をしている。かつては民衆運動に密着し、政界での孤立をむしろ誇りとしていた急進大義は、今では社会的課題を忘れて政界遊泳に没入することになってしまった。

"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/%E6%80%A5%E9%80%B2%E5%A4%A7%E7%BE%A9" より作成

このページは 358 回アクセスされました。 最終更新 2006年12月9日 (土) 08:03。 Content is available under 帰属-派生禁止 2.5 .


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