多数派勢力組織
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Organización Fuerza Mayoritaria, OFM
社会主義運動(MAS)から分かれた左翼政党で、ララ州に勢力が限られる。同党のオルランド・フェルナンデス・メディナ (Orlando Fernández Medina)が「運動勢力組織 (Organización Fuerza en Movimiento, OFM )」として結成した。後に多数勢力組織に変わったらしいが、その時期は私には不明。党の略称と指導者のイニシャルが同じなのは、偶然ではない。
ララ州の地方政党
ベネズエラにおける多党化は、一つの重要な例外 (第五共和国運動) を除き、党組織が弱体化し、政治家個人が独立性を著しく高める現象としてあらわれた。社会主義運動からララ州知事になったフェルナンデスは、1998年の再選に際して、党の地方組織を割ってOFMを作った。社会主義運動はフェルナンデス・メディナの行動に不快を感じたが、チャベスをかつぐ愛国極の一員として、激しい反対はしなかった。
2000年選挙に際して、第五共和国運動は自党のレエス元中佐をララ州の知事候補に擁立する意向を固め、フェルナンデス・メディナと交渉に入った。彼は入閣を条件に立候補を断念した。国民議会選挙では、第五共和国運動と合同のリストを作り、パラシオスとペラサの二人を当選させた。
余談だが、こうして合同リストで当選した議員の内訳は公式の発表からはわかりにくい。調べる人には面倒くさく、国民にとってもわかりにくい手法である。政党間の取引きには便利なのかもしれないが。
2002年まで、国会では第五共和国運動と一体となって動いていた。2001年に社会主義運動が連立離脱すると、議席差が接近したため、OFMのような小政党がキャスティングボードを握る場面がでてきた。パラシオスは2002年に議会の財政委員会で多数派を左右する一票を握った。14.5%の付加価値税を16%にする政府の増税案が、15%で妥結したのは、パラシオスの影響力によるのだとか。
与野党のはざまで
OFM独自の動きは、2002年後半に、野党との対話を推進する態度となってあらわれた。社会主義運動から分かれた連立小党にはポデモスもあり、立場も主張もほとんど同じである。2002年10月25日にフェルナンデス、パラシオス、ペラサの三人は、チャベス大統領と会談して、野党が推す諮問国民投票案を説いた。チャベスはこの時は憲法の枠内での行動を主張して断った。 //[EM:10/26; EN:10/26] 。しかしチャベスは、数日後に米州機構のガビリアと話しあってOFMの推す方向での交渉を受け入れた。連立友党の動揺に対する配慮であろう。
パラシオスは、2002年12月5日にポデモスのヒメネス党首と組んで、辞任を問う国民投票を可能にするための憲法改正を行なおうと提案した。 //[EN:12/06] この案は第五共和国運動も含めた与党各党の内部に賛否両論を呼び起こした。しかし、翌6日のフランシア広場乱射事件が対話の動きを押し流した。野党が一致して大統領即時辞任要求を打ち出したため、与党側からの動きが無駄になることが明らかになったのである。結局、憲法改正案は流れた。
離脱と敗北
チャベス派切り崩し工作として、野党が2003年の国会議長の候補にパラシオスを担ごうとしたとエルナシオナル紙は報じたが、これは記事一つで終わった。 //[EN:12/28] 第五共和国運動から冷遇されたフェルナンデス・メディナは、自らの政治生命を保つかどうかの決断を迫られていた。2004年州知事選挙が近づいてきたのである。オルランドは第五共和国運動と袂を分かち、若干の野党の後援を得て、知事選挙に打って出ることを決断した。が、敗れた。次の年の議会選挙で、OFMは他の野党とともに選挙をボイコットしたため全議席を失った。もっとも、与党から野党に転向した彼らの当選のみこみは初めから小さかった。独立した政党としてのOFMの未来は、はっきり言って暗い。
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