メインページ | 最近更新したページ | このページを編集 | 履歴

印刷用バージョン | 免責事項 | プライバシー・ポリシー

ログインしていません
ログイン | ヘルプ
 

交渉対話テーブル

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

メモ

Mesa de Negociacion y ...

目次

概要

 大統領の即時辞任を求めて盛り上がった2002年10月の反政府デモ、ゼネスト、一部軍人の不服従は、急激な政変をもたらさなかった。一方、民衆の圧力におされた政府も、譲歩姿勢を見せた。米州機構の仲介により、今年か来年に諮問国民投票、ないし憲法改正による大統領選挙を実施することで、与野党の話がまとまりつつあった。しかし、12月6日の乱射事件で、対話の動きはついえた。

諮問国民投票の提案背景

 国民投票を通じてチャベス政権への不信任をつきつけようというアイデアは、2002年の2月、3月の頃から反政府派の中に存在していた。しかし、ゼネストによるチャベス孤立化や軍事クーデターへの期待があって、全体的には直接行動路線が優勢だった。諮問国民投票を大統領罷免に使うのは、現行憲法との関係でも問題があった。政府の同意が困難だという点では、即時辞任要求も、国民投票というステップを踏んだ辞任要求も同じである。

 2002年4月のクーデター未遂がチャベス政府の方針を転換させた。チャベス政府は、クーデター派を非難しつつ、そうでない反政府勢力とは対話するという方針を打ち出した。しかし反政府派はこれに応じず強硬に大統領辞任を要求した。反政府派の頑なな態度のおかげで、政府は、これまでの非民主的イメージを、国際的に改善することができた。反政府派支持層である中産階級は、外国から見たイメージを気にする性格をもっていたので、これはチャベス政府に有利な展開だった。冷戦時代の中南米・北米では、と反共主義が、右からのあらゆるクーデターを正当化していたが、現在の中南米ではそうはいかない。

 推測だが、これまでもっぱらチャベス政府に批判的だった国際機関が、反政府勢力に冷淡になったことが、チャベス政権のさらなる軟化をうながしたのだと思われる。いまや国際機関は味方であるから、彼らからの妥協勧告をチャベスも真剣に受け止めるようになったのであろう。チャベスは国民投票による政治決着を容認することにした。

 そして、2002年10月の「合法的不服従」の行き詰まりが、反政府派の転機になった。ごり押ししてもそれだけでチャベスが辞任することはないし、不満軍人に再度のクーデターを起こす力がないことも分かってしまった。ここにおいて、今までは影が薄かった野党政治家が主導権をとり、国民投票で与野党が合意する素地ができた。


諮問国民投票の憲法・制度的位置

 1999年に制定された新憲法は、国民投票について次のように定めている。  諮問国民投票で大統領を辞任させるのは無理があるのだが、野党の言い分は異なる。国民結束のフアン・ホセ・カルデラ国会議員 (Juan José Caldera) は、国民投票を要求する権利は国民にあるのだから、どういう要求をするかも国民が決めてよいのだという説を議会で説いた。[EN:11/30]

 与党の中では、ポデモス党首のラファエル・シモン。ヒメネス (Rafael Simon Jiménez) が諮問国民投票案を支持した。しかし彼の案に賛成するものは党内にも少なかった。サーブ(Tarek William Saab)やダリオ=ビバス(Dar\'io Vivas)、フロレス(Cilia Flores) など第五共和国運動の議員は反対した。[EM:12/26]


ガビリアの調停工作 (第2回)

 2002年10月22日、不満軍人がフランシア広場で「合法的不服従」をはじめると、ガビリアは声明を一本出してもう一度交渉を仲介しようと申し出た。ガビリアは25日にベネズエラ入りした。

 10月25日に、連立与党の議員は、チャベス大統領と会談して、野党が言うような諮問国民投票を受け入れようという提案を行なった。多数派勢力組織フェルナンデス・メディナとパラシオスとペラサ、ポデモスのガルシアとリカルドである。[EM:10/26; EN:10/26]

10月28日の会談の出席者
仲介側 セサル・ガビリア 米州機構事務局長
エレナ・マルティネス 国連開発計画の代表
ジェニファ・マッコイ カーターセンターの代表
政府側 ウゴ・チャベス 大統領
ホセ・ビセンテ・ランヘル 副大統領
ロイ・チャデルトン 外務大臣
マリア・クリスティナ・イグレシアス 労働大臣
アリストブロ・イストゥリス 教育文化スポーツ大臣
ホルヘ・バレロ 米州機構大使

 カラカスに入ったガビリアは、まず10月28日にチャベスと3時間にわたって会談した。政府側・仲介側の出席者は右の通り。ランヘル以下の対話チームの顔ぶれがわかる。[DJ:10/29]

 このスタート時、まだどうなるものとも分からないうちから、マスコミは交渉には期待できないと報じた。[EU:10/29; DJ:10/29] ベネズエラの二大紙の一つ、エルウニベルサル紙は、「ガビリアとの会合は悲観論を残した」という見出しの下に、「失望と懸念がガビリアと会った記者と編集者の感情であった」と一面に記した。ガビリアと記者が会ったというのは、チャベスとの会談の後でガビリアが行なった記者会見のことである。ガビリアが米州機構を動かしてチャベス政府に制裁を行なうことをせず、チャベスが相変わらず諮問国民投票を呑まないことが、記者たちには不満だった。そこで、エルウニベルサルは記者たちの「世論」を一面で報じ、ガビリア・チャベス会談の内容を四面にひっこめた。ちなみにこの日のトップ記事は、チャベスが大統領専用機の中で与党幹部と会議をしたことを公私混同として告発する記事である。[EU:10/29; DJ:10/29] この傾向はエルナシオナル紙も同じである。同紙のコラムの執筆者は、チャベスを全国民に敵対するものとみなす観点から対話テーブルとガビリアをけなし、中にはクーデターを願う意見もみられる。[EN:11/23]

 10月28日から30日の交渉で、政府は選挙による解決に向かって舵を切った。チャベスは10月30日に、ガビリアの調停工作にほとんど全面的支持を与え、辞任を問うような国民投票についても話し合うと述べた。[DJ:10/31] 翌10月31日の国民議会は、国内各層から代表を集めて平和民主委員会 (Comisión por la Paz y la Democracia) を設け、政治解決の道を討議することを、満場一致で決議した。そこでは、国民投票や憲法改正についても話し合われることになった[EN:11/01]。

 ガビリアは選挙による解決の必要を繰り返してこの動きを励ました。10月30日には「国は選挙決着をはからねばならないという一般的承認が必要だ」と記者に語り[DJ:10/30]、31日には国民議会に「この国が必要としているのは選挙による出口だ」とメッセージを寄せた。国民投票の性格については話し合いで決めるとして、最終的には選挙に導かなければならないというのがガビリアの考えである。この段階でガビリアの楽観には根拠があった。[DJ:11/01]

 元社会主義運動のコラムニスト、ペトコフは、古くからの反チャベス派であるが、政府の態度の軟化に政治解決の可能性を読み取った。[DJ:11/01] 社会主義運動のタブランテ議員も、与党からなされた譲歩に満足し、「われわれは政治危機の中にいるのだから、法的出口ではなく、政治的出口を見つけなければならない。合法的なものと政治的なものの均衡を探らなければならない」と述べた。[EN:11/01]

世論調査

「もし次の日曜日にチャベスが大統領でいつづけるべきかミラフロレスを出るべきかについての国民投票が実施されたら、あなたはどう投票しますか」というダタナリシス社による11月の世論調査に対して、回答者の66.1%が辞任を、33.9%が続行を望んだ。


選挙委員会の決定と最高裁の判決

 対話テーブルが政治舞台で光を浴びたとしても、その外にいる強硬派の活動意欲が停止したわけではない。11月1日にCTVのコバ書記長 (Manuel Cova) は、最高裁が国民投票を邪魔するなら無期限ストだと脅しをかけた。[EN:11/02] つまり、諮問国民投票による辞任という手段に違憲判決が下されたら、ということである。

 11月を通じて選挙委員会の内部で紛争があった。国民投票の扱いが問題の焦点である。その過程で委員の辞任があり、補充委員の資格喪失がどうだとか、何がどうしてどうなっているのか、私にはわかりません。

 スキャンダルというほどのこともないエピソードだが、選挙委員会のアビラ委員長と、反政府派の急先鋒であるフェルナンデス・フェデカマラス会長がなにやらきなくさい話をしている録音が暴露された。フェルナンデスは「ただ情報を求めただけ。プライバシーの侵害だ」、アビラは「同じような会話は与党幹部ともした」と応えた。[EN 11/30] もともと政治的中立に欠ける組織であったところに、こういう情勢が来たのだから、まったく意外ではない。

 11月27日に、全国選挙委員会は、チャベス大統領を信任するかを問う国民投票を翌2003年2月2日に実施することを決定した。賛成3、反対1である。28日に最高裁は、選挙形態に関する決定を下すには単純多数では不十分だとして、選挙委員会の決定を取り下げさせる判決を下した。選挙委員会のアビラ委員長は、最高裁の判決はその他の決定の合法性を認めたものだと弁じて、2月2日の国民投票の方針は揺るがさないという判断を発表した。[EN 11/30] 12月3日に今度は4対1で決定をやり直し、最高裁が課した条件を乗り越えた。

軍事介入から2002年12月市民ストへ

憲法修正案の挫折

 最初の数日、2002年12月市民ストの勢いは弱かった。これを見て、第五共和国運動の戦術司令部で、憲法修正をして早期選挙に打って出るという案が検討された。チャベス支持率は回復しつつあり、選挙になれば野党は分裂する可能性が高いというのがその理由である。だがチャベスは、野党が脅しをかけるたびに憲法を修正していたら、以後どの政権も統治不能になると言って、反対した。結局同党は修正案を推すことはあきらめた。[EN:12/04]

 米国が圧力をかけはじめた12月13日、チャベス大統領は、CNNのインタビューに応じて、選挙前倒しについて交渉合意テーブルで話し合いはするものの、その実現の可能性はないと答えた。チャベスは今までの譲歩を取り下げたわけではない。だがさらなる歩み寄りもない。野党内の強硬派、たとえば民主行動のラモス=アルプ (Henry Ramos Allup) は、交渉テーブルでの動きを無にして「チャベスがあらゆる出口の可能性を否定」したものと解釈した。ラモス=アルプによれば、政府の発言はどれも信用できず、受け入れがたいのである。また社会主義運動のムヒカは次のように批判した。「彼の発言は国民との接触を失った政府のものだ。そして政府に疑問を感じているのは野党だけではなく、米州機構の加盟国にもいる。そこでチャベスは人々が期待する選挙が実施されないなどいう無責任な言い分に戻っている」と。[EN:12/15]


"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/%E4%BA%A4%E6%B8%89%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB" より作成

このページは 166 回アクセスされました。 最終更新 2006年12月3日 (日) 11:06。 Content is available under 帰属-派生禁止 2.5 .


[メインページ]
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
最近更新したページ
おまかせ表示
ヘルプ
寄付

このページを編集
このページのノート
履歴
リンク元
リンク先の更新

特別ページ
バグの報告