ルイス・ミキレナ
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Luis Miquilena
左翼の政治家。チャベス政権初期の有力政治家で、チャベスの師と呼ばれた。現在は反チャベス陣営にくみしている。
労働組合の活動家として出発し、民主共和連合 (URD) の議員となった。下院議員と上院議員を歴任した。プントフィホ協定への同党の署名者であり、1961年憲法の起草にも加わった。同党の没落後、国民主義統合革命党に転じ、これが行き詰まると政治を引退して農場経営をしていた。
1992年の4F反乱には関与しなかったが、その後の政治組織作りに参加し、第五共和国運動の有力政治家として認められた。80代の年齢は、平均年齢が若い党内では突出していた。
ウゴ・チャベス大統領の信任が厚く、1998年の選挙戦を取り仕切り、1999年1月に内務大臣に任命された。同年春に全国的な土地占拠運動に見舞われた際には、弾圧手段なしで事態を収拾し、政権の強圧イメージをやわらげることに成功した。
この後すぐに内務大臣を辞して憲法制定会議議員になり、憲法制定会議の議長に選ばれた。この会議の「始源的」性格(制定会議は国民主権の体現者として全権・全能を持つという考え)を強調して全国非常事態宣言を発し、最高裁を屈服させ、議会を解散した。憲法制定後には、制定会議が議員を指名した暫定議会「全国立法委員会」の議長となり、立法権を牛耳った。
党幹事長として第五共和国運動と愛国極の政党規律をすすめる立場にあり、かつ公職でも強大な権限を握っていたため、党内の不満を集中して受けてきた。新たなコゴジョとの指弾を受けた。コゴジョとは、委員会を根城にした政党ボスのことで、もともとは民主行動とコペイの執行部連を指していう悪口だった。非難の対象にできないチャベスに変わって嫌われ役をひきうけていたといったところか。
正規の国民議会発足によって、重要な肩書きは党幹事長のみとなったが、2000年中に内務司法大臣に任命された。党幹事長は交代した。
党内穏健派の中心で、自ら称して「対話の人」。攻撃的なチャベスとは対照的だったが、これでいい組み合わせだったのかもしれない。態度の差が不和なのかそれとも計算ずくだったのかは、現在ではわからない。連立与党や独立系政治家との交渉をひきうけ、党の外からは評価が高かった。2002年1月末、激務に耐えないことを理由に辞任した。1月23日に反政府デモがかつてない盛り上がりを見せた直後だった。 退任の直後には反政府運動との関連をにおわせなかったが、事態の進展を見て豹変し、反チャベス陣営に加わった。「連帯」という小政党を率いたが、チャベス派も反チャベス派も今のミキレナに従う道理はない。影響力はゼロに近い。
![[メインページ]](/Venezuela/skins/common/images/wiki.png)