ルイス・アルファロ・ウセロ
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Luis Alfaro Ucero
アルファロはベネズエラ現代政治史の生き証人と言うべき経歴を持っている。少年期から、民主行動の地下活動に加わり、ペレス=ヒメネス独裁に抗して闘った。身があやうくなると妻子を残して亡命し、民主化によって帰国した。復帰後は主として党務をあずかり、順調に出世して「首領(カウディーリョ)」のあだなを得た。
1989年に、カルロス・アンドレス・ペレス大統領が党に断りなく政策を極端な自由化・民営化の方向に変えたことが、ベネズエラ第一党の勢力を誇った民主行動の没落を招いた。アルファロはこのようなやり方に反対だった。彼のような党幹部は、ベネズエラの世論の中では腐敗と談合の象徴のようなものだったが、党の果たすべき任務についてはアルファロにも言いたいことがあったと思われる。
1993年にはペレスと仲がよいクラウディオ・フェルミンが大統領候補に立った。フェルミンが敗れると、アルファロはやはり党の右傾化は失敗だったとして、大粛清を敢行した。全国執行委員会(CEN)からフェルミン派を排除し、1995年までに、不服従とカルロスアンドレス派とみられた党員1万936人を除名した。こうして左に揺り戻した民主行動は、1995年選挙で左翼政党を破り回復を果たした。アルファロの采配が成功したのである。
だが次の選挙では別の要素が待ち構えていた。1998年大統領選挙では、前年までフェルミンが世論調査の2位につけており、イレネ・サエスともども、経済的には右と右の選択になる情勢だった。1993年選挙でも、選挙戦開始前にはフェルミンと[[オスバルド・アルバレス・パス」の右-右対決の構図が浮かび上がっていた。そしてどちらの場合も、ダークホースとみなされていた左の候補が当選したのである。
アルファロはフェルミンを退け、自らが立候補することを決めた。40代で人気が高いフェルミンが、特に人気がない70代のアルファロに退けられたことは、ただでさえ政党支配の弊害が語られていた時期だけに、不評だった。
開放の大統領候補ミゲル・ロドリゲスは、小学校を出ただけのアルファロを、「アルファロ氏は教育を受けず、必要な経験を持たない人です。党内環境を扱うのに生涯全部を費やしてきた人です。さらに、ベネズエラの人口の80%が30代以下であるときに、もう80代(鈴田注: 事実は70代)の年老いた人です。民主行動はもっと若く専門知識がある候補を立てるべきでした。しかるに今われわれは党を実際上歴史以前に導いていく候補を見せられています。嘆かわしいことです」と酷評した。元はロドリゲスも同じ党なのだからもう少しお年寄りを敬う方がいいと思う。しかし勝てる候補を捜した結果の擁立ではないと思われるのは、しかたがあるまい。
アルファロは、今の自分に知名度が欠けているとしても、国民が理解してくれれば支持が広がるはずだと述べて選挙戦を開始した。確かにある程度支持率は伸びたのだが、10%に及ばない程度でしかなかった。党を左派に引き戻すことは、政治戦略として正しかったのかもしれないが、大統領選挙では組織だけでなく個人の魅力がものを言う。大統領と党の確執は民主行動の伝統行事だったが、選挙に勝つためには、個人と組織の両方が必要だったのだ。党組織が完全勝利したとき、魅力ある個人候補も消えた。アルファロでは代わりにならなかった。
時機の遅さも不利に働いた。立候補の根回しに時間をかけている間に、前年には真空だった「左」にウゴ・チャベスが登場したのである。チャベスは民主行動を激しく攻撃した。老練なアルファロが各団体と調整しながらとった左傾戦略は、イレネやフェルミンに対しては意味を持ったかもしれないが、チャベスの前では霞んでしまった。世論調査は1998年初めにはチャベスが首位に立ったのに、アルファロ擁立が固まったのは5月である。もはや手遅れだった。
夏から秋にかけて、支持率はほとんど動かなかった。2位サラスはチャベスに及ばないが、サラスとアルファロの支持率をあわせれば、チャベスを上回るみこみがあった。ここにおよんで、民主行動の新書記長ペレスを中心にした党執行部は、11月にアルファロの支持を取り下げ、サラス支持を表明した。前代未聞のどたんばでの豹変であった。アルファロは立候補取り下げを党から求められたが、拒絶した。党から除名されたアルファロは、「私は威厳をもって倒れるのだ」と述べた。他にアルファロを支持していた小政党は、アルファロ支持を継続した。結果は惨敗で、これをもって老政治家は政治舞台から去った。
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