ホセ・ビセンテ・ランヘル
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
José Vicente Rangel Vale
外務大臣(1999-2001)、国防大臣(2001-2002)、副大統領(2002-)。
1929年7月10日、カラカス生まれ。16才で民主共和連合 (URD) に入り、1948年にクーデターが起きるとペレス・ヒメネス独裁に対する反対運動に身を投じた。そのせいもあって、ベネズエラの大学を二つ渡り歩いた後、チリで一つ、スペインで二つと大学を遍歴した。チリでチリ人と結婚した。
1958年の民主化で帰国し、政治活動に復帰した。下院議員を五期連続で務めた。1973年から1983年までは、左翼諸政党の推戴を受けて大統領候補として立候補した。同時にジャーナリストとしても活動した。政治家と兼任できる職業なのだろうかと思うが、そういうことだから仕方がない。
1999年2月、ウゴ・チャベス政権発足と同時に外務大臣になり、2001年1月に国防大臣に転じるまでチャベス政府の外交を主導した。与党には入らず、独立系に留まっている。中南米諸国や米国との関係を悪化させないように注意を払いつつ、徐々に独自の外交色を打ち出した。その一つはコロンビア和平への関与であり、もう一つは米国べったりであった従来の外交からの離脱である。
ランヘルの外交は、大きな成功は生まなかったが、破綻もきたさなかった。結局成果を生まなかったコロンビア和平への関与は、むしろコロンビアをいらだたせることになった。チャベスは米国・コロンビアの対麻薬共同作戦を繰り返し批判していたので、当然ではある。従来のベネズエラは、親米外交と第三世界外交を柱にしていたが、第三世界外交といっても「親米でかつ第三世界に属する国」との外交に限られていた。ランヘルは、今まで関係が薄かった地域との友好を深め、同時に米国との衝突を避けるという矛盾した目標に取り組み、この綱渡りをうまく続けた。首脳外交に熱心で、しかし忘れた頃に攻撃的発言を持ち出すチャベスとの両輪ははためにも大変そうだった。しかしこれがうまくいったのは、米国のクリントン政府がベネズエラといたずらに対決することを望まず、また対決を避けることが可能だと判断したおかげである。両国とも、衝突を避けたいという気持ちで一致していたわけだ。
2001年2月に、ランヘルはベネズエラ初の文民出身の国防大臣に就任した。こちらでの事績は私にはわからない。ルイス・ミキレナとともにチャベス政府穏健派の重鎮として、政党間対立を緩和させ、反対派の権利・活動に理解を示す発言を行った。
だが、軍内部の反対を抑止するという任務には失敗した。2002年2月、空軍のソサ大佐をはじめ、数人の現役軍人が政府反対の声をあげたとき、ランヘルは有効な手を打つことができず、軍首脳に忠誠を誓わせたほかは、事態の悪化を眺めるだけだった。そして4月、軍首脳によるクーデターが起きた。このときランヘルはチャベス逮捕を見送り、自宅に帰ってのんびりと電話インタビューに応じてみせた。その裏でチャベス派の動員に力をつくし、劇的なチャベス復帰に一役買った。
チャベスはしばらく前から対話路線に転じており、クーデター失敗を対話のために生かそうとして、その周旋をランヘルに委ねた。ミキレナが引退し寝返った後、ランヘルは穏健派最大の人物であり、長い経歴を通じて良識ある人とみなされている。そして4月中に副大統領への任命が発表された。ランヘルはこれ以後チャベスの片腕となり、チャベスの激論と一歩距離をとった発言で政権の理性を代表した。変な見方をすれば、ランヘルはなおも外務大臣である。ガビリアやジミー・カーターの仲介と、いまや全面対決に至った反政府派との外交舞台に出たのは、チャベスではなくランヘルであった。
そして、ランヘルが退いた後の国の外交は成果に乏しいものになった。米国ブッシュ政権との抜き差しならぬ対立である。外務大臣だった頃のランヘルは、チャベスが景気のいい反米論をぶって回るたびに、その発言にせっせと水をかけて両国関係の極端な悪化を避けてきた。クリントン政権が相手ならそれも通用したのだが、相手が変わるとそうもいかない。ランヘルが外交舞台から転じたあと、ブッシュ政権はチャベス転覆の陰謀を煽り、チャベスはチャベスでブッシュを徹底的にこき下ろし、両国関係は今ではもうこれ以上冷えようがないというくらいに冷え切っている。これもまた、交渉者としてのランヘルの手腕を裏から証するものではなかろうか。
![[メインページ]](/Venezuela/skins/common/images/wiki.png)