ベネズエラ計画
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Proyecto Venezuela。
エンリケ・サラス・ロメルが率いる政党で、市民尊重を唱える。経済政策的には右寄りの政党である。
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カラボボ計画
ベネズエラ計画の前身は、1995年に作られたカラボボ計画 (Proyecto Carabobo) である。サラス・ロメルは1980年代にコペイの下院議員を務め、1989年からは名目は独立系で、しかし実際にはコペイと社会主義運動の支持を得てカラボボ州知事を務めていた。カラボボ州は人口がベネズエラで第3の州で、第3の都市バレンシアを抱えている都市型の州である。
サラス・ロメルは息子のエンリケ・フェルナンド・サラス・フェオに州知事を継がそうと考えて、コペイとの関係を断ち切って自分の政党を結成した。カラボボ計画は、1995年9月19日に結成された。子供は父親ほどの得票を集められなかったが、他党が分裂して候補を立てたため、なんとか当選した。カラボボ計画の候補は市町村や州議会の選挙でも他党と競り合って良い成績を残し、州内にしっかりした地歩を築いた。サラス・ロメルの個人人気がこれらすべてを支えていた。
ベネズエラ計画の発足
サラス・ロメルは1998年大統領選挙への出馬を表明した。そのための全国政党として前年から準備し、1998年7月7日に正式結成したのがベネズエラ計画である。全国政党としての組識は弱体で、地元カラボボの他、首都カラカス近辺など大都市圏の中・高所得層から支持を集めた。
サラスが大統領候補としてはダークホースとみられていたこともあって、大統領選挙の日まで、政党として注目を集めることはほとんどなかった。しかし、選挙戦終盤からサラスがチャベスに対抗しうる唯一の候補と目されるにおよんで、ベネズエラ計画の地位も上昇した。
1998年11月の議会選挙では、上院では2議席しかとれなかったものの、下院で20議席(得票率10.4%)を擁する有力野党になった。ゼロからの大躍進である。カラボボ州知事もサラス・フェオが再選して確保した。12月の大統領選挙で第五共和国運動(MVR)のチャベスに敗れたものの、サラスが40%の得票を集めたことにより、「MVRとベネズエラ計画の二党化」傾向と評する記者も出るにいたった。
政策と組織
党は右翼と自称しないが、支持者たちも自分たちが「右」だということは自覚している。民営化と分権化を、様々な政策分野で解決の鍵として提案する。1998年選挙でサラスは国営石油会社の事業の部分的民営化を主張し、選挙後の党は、ベネズエラにOPECと協調する必要はないという考えを文書に載せた。理屈はともかく、他地域はともかく、中南米の民営化は、重要産業を北アメリカとヨーロッパの資本に渡す結果になることが多い。サラスもまたそういう道を通って景気を回復する策を抱いているのだろう。
ベネズエラ計画は、固定的な党員・継続的党組織拡大には関心を持たない。短期に絞って多額の資金を投入し、集中豪雨的キャンペーンを張る手法を好む。小さくて機動力がある効率的な政府を求めるベネズエラ計画は、小さくて機動力がある効率的な党組織を求めるということなのかもしれない。が、党組織が育つと個人支配の妨げになるからなのだと悪口を言う人もいる。
集中的キャンペーンのために、党員ではなく、個別企画支援のためにボランティアを募るという方法をとる。政治活動に一時的なボランティアを用いる手法は正義第一も行っているが、始めた時期はたぶんベネズエラ計画の方が少し早いのではなかろうか。
党勢頭打ち
1998年選挙の後、ベネズエラ計画は伸び悩んだ。中産階級に絞った呼びかけは、低所得層からの支持調達を事実上不可能にした。地方には民主行動やコペイが強い地盤をはっており、野党の中心としての役割をベネズエラ計画が果たすことはできなかった。ベネズエラ計画は、市民的価値を中産階級が体現するものと考えた。その想定を間違いとみなすことは難しい。しかし実際に「市民的価値」を体現していた多くの市民運動は、たとえ中間層から発信されていても、思想的に社会の周縁・底辺への配慮を志向していたから、ベネズエラ計画と方向が微妙に異なるものだった。
2000年選挙でベネズエラ計画はカラカスで正義第一の追撃を受け、他地域でも伸び悩み、得票率は6.9%に落ち込んだ。ベネズエラ計画は2年前に受けた風を失ってしまった。2004年地方選挙ではさらに痛い打撃を受けた。サラス・ロメル当人が立候補したカラボボ州知事選挙で、与党候補に敗れたのである。党の支持基盤はカラボボと首都圏に限られたままで、勢力が縮小している。私には、ベネズエラ計画がこのままサラスの個人経営でいくのは難しいように思える。
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