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コペイ

出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」

Comité de Organización Política Electoral Independiente, COPEI

 社会キリスト教ないしキリスト教民主主義政党。正式名称は「独立選挙政治組織委員会 」だが、長ったらしく無内容なこの名前はめったに使われず、コペイと言い習わす。国際的にはキリスト教民主主義陣営に属するが、社会改革に積極的な党として、社会キリスト教党(partido socialcristiano)を自称する。日本を含む外国ではキリスト教民主党とも呼ばれる。

目次

コペイ

 現代ベネズエラの政党の始まりは、独裁者ゴメスとその後継政権に反対する運動を起こした反体制活動による。その運動は民主行動とベネズエラ共産党に連なり、どちらも思想的にはマルクス主義の影響が強かった。マルクス主義に反発し、しかし権威主義政府にくみしたくもないというカトリックの青年たちは、ゴメスの死後に遅ればせながら政治活動をはじめた。彼らが1938年に、学生運動を割って作った組織が、全国学生同盟 (UNE) である。

 後に、既に学生ではなくなった活動家が、1941年に「選挙行動」を作り、翌1942年に「国民主義行動」と改めた。政党とは名乗っていない。元来保守的なカトリック活動家の間に、民主主義や政党政治に対するためらいがあったためらしい。この組織の中で民主主義と社会改革に意欲的だったのが、若き日のラファエル・カルデラである。彼の立場はベネズエラで民主化が進むにつれ、説得力を増していった。

 1945年に、民主行動(AD) が政権をとると、カルデラは「選挙登録委員会(CIE)」を作った。翌1946年1月13日、「独立選挙政治組織委員会(COOPEI)」の創設集会がカラカスで開かれ、ここにコペイが誕生した。創設の場所はカラカスのクリーニング屋に間借りした党事務所だったという。小党らしいほのぼのしたエピソードである。独裁に見切りをつけた保守層が流れこんだため、急速に成長して、民主行動に大きく引き離されつつも、第二位につけた。

 当初民主行動の政府に協力したが、党集会が政府に妨害されたのをきっかけに支持を撤回した。民主行動政権が打倒された後、ペレス=ヒメネス政権ではじめのうち比較的厚遇をうけていたが、彼の長期独裁の意欲があらわになるにつれ距離をおき、最終的には反政府活動に転じた。この過程でさらに左傾化を強め、社会キリスト教政党を自認する中道大衆政党に変貌した。

プントフィホ体制

 ペレス=ヒメネス追放後、1958年に民主行動(AD)・民主共和連合(URD)と三党でプントフィホ協定を結んで連立政権を組んだ。連立時代は長く続かなかったが、この後も民主行動と協力して「ベネ民主主義(Venedemocracia)」を擁護する主柱でありつづけた。

 政党配置的にはやや左の民主行動に対抗してやや右の保守的経済政策を標榜した。企業家寄りと見られてはいたが、内部では左右のばらつきが広かった。1960年代には、学生を中心にマルクス主義に好意的な左翼キリスト青年が台頭し、カルデラら主流派によって除名された。だが、そのカルデラはベネズエラ労働法の起草者であり、党内では左寄りである。民主行動の創設者ロムロ・ベタンクールが党内右派だったのと対称形をなして、ベネズエラ二大政党の中道化を支えた。

 内部に分裂を抱えながらもコペイは1990年代まで分裂を経験しなかった。政権に手が届きそうな第二党、そしてベネズエラ唯一の有力右派政党としては、分裂して力を弱めるわけにはいかなかったのである。

 民主行動の分裂に助けられて、1969年にはカルデラを大統領につけた。以後1993年まで二大政党の一翼を担った。カルデラの後一期おいて、反カルデラ派のルイス・エレラ・カンピンスが1979年にコペイ二人目の大統領になった。

人材流出と党勢凋落

 第二次ペレス政権の「大転換」に際しては、与党の民主行動が改革に抵抗したのに対し、野党のコペイが改革の遅延を批判した。しかしカルデラは国民生活の維持のため改革速度を低下させるべきだという意見で、党の方針から離れた。1993年の大統領選挙では、カルデラが脱党して国民結束から立候補し、勝ってしまった。二大政党制が続いていればペレス批判を受けてコペイが政権を奪還するはずだったのだが、この選挙で政党システムは民主行動・コペイ・国民結束/社会主義運動の連合会派・急進大義の多党制になった。

 1998年大統領選挙では、カルデラ・エレラを継ぐ党の最有力者フェルナンデスが大統領候補に立つと思われてきた。しかしウゴ・チャベスの支持率が無視できなくなると、その勝利を阻止するために独立系のイレネ・サエスを推そうという動きが有力になった。イレネとフェルナンデスの間の直接交渉を経て、イレネをコペイの党大会に招請することが決まった。5月の党大会の選挙ではイレネが976票、フェルナンデスが540票で、イレネがコペイの候補になった。コペイにとって大誤算だったのは、その後のイレネの支持率が低迷したことである。イレネの個人的人気とコペイの組識力の足し算になるはずが、イレネ人気から反政党票が引き算されてしまったのである。

 チャベスの独走は止まらなかった。対抗馬として世論調査のポイントを稼いだのは、エンリケ・サラス・ロメルであった。11月末、民主行動がチャベス大統領の出現を防ぐために自党候補ルイス・アルファロ・ウセロを降ろすことを決めると、コペイもこれにならってイレネからサラスへ支持を乗り換えた。 しかしながら結局この動きは敗北に終わった。11月の議会選挙でコペイは得票率十数%にまで後退した。なおも議会内の有力政党ではあるが、イレネとの提携が惨めな失敗に終わったこととあわせ、コペイ党員に深い傷を残した。

 思えば、サラス・ロメルも元はコペイから出て州知事に当選した人である。1990年代のコペイは、そしてベネズエラの右派勢力は、分裂に分裂を繰り返し個人個人の政治家レベルまで分解してしまった。もともと政党の腐敗批判の矢面に立っていたのは民主行動であり、コペイはむしろ清潔さを訴える側にあった。ところが(なのか、だからこそなのか)、新党を起こそうとする動きはどちらかというとコペイ側に強く、結果的に右派陣営は細かく割れてしまった。

現在のコペイ

 コペイにとって党組織の建て直しは簡単ではない。1998年選挙の敗北後には一度解党が提案された。1999年7月の制定会議選挙の直後に、エレラ党首・ラミレス書記長以下の党執行部が敗北の責任をとって総退陣した。

 1990年代のベネズエラとラテンアメリカの経済政策の傾向、すなわち緊縮財政・民間部門重視は、コペイの年来の路線と近いはずだった。にもかかわらずこの間コペイの党勢は後退の一途をたどっている。前回選挙のカルデラ、今回のチャベスは、ともに反新自由主義を掲げて当選した。ベネズエラの経済政策と選挙政治の間には、何か「ねじれ」があるらしい。

 しかしコペイの命運はまだ尽きなかった。コペイから分離した政党や個人政治家の勢力は限定的で、コペイを一掃できるものではない。たとえば、コペイから当選したミランダ州知事エンリケ・メンドサは、2003年に反チャベス派の間で好感度第一の政治家として注目されるようになった。カラカスの市街の東半分は、ミランダ州にかかっている。メンドサはその地元で反政府デモの指導にあたりながら、性急にチャベス即時辞任を期待する人を戒めていた。2002年の激化路線が失敗に終わり、国の厳しい分裂状態が痛感されると、抑制的なメンドサの態度が見直された。

 期待のメンドサは、2004年9月の地方選挙で敗れた。これはコペイにとって最後の打撃になり、組織も指導者も弱い小政党に転落してしまった。2006年の大統領選挙ではマヌエル・ロサレスを支持したが、得票率は2%。ロサレスの新しい時のみならず正義第一にも大きく引き離された。

"http://suzutayu.s156.xrea.com/Venezuela/index.php/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%82%A4" より作成

このページは 452 回アクセスされました。 最終更新 2006年12月15日 (金) 05:20。 Content is available under 帰属-派生禁止 2.5 .


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