クラウディオ・フェルミン
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Claudio Eloy Fermín Maldonado
民主行動の元リベルタドル市長。1993年・1998年・2000年の大統領候補。 1997年に党を脱したが、後に復帰。
フェルミンは民主行動の政治家として、カラカスの中心リベルタドル市の市長をつとめ、1993年には同党の大統領候補になった。カルロス・アンドレス・ペレス元大統領と親しく、党内では右派であった。93年には親市場的態度を隠さず、対立候補のオスバルド・アルバレス・パスとこの点で同じだった。二大政党のいずれも市場派ということで、財界は喜んだが、国民は嬉しくなかったようだ。[Coppedge 2000: p133] 二人は一緒に敗北し、ラファエル・カルデラが当選する逆転劇がおきてしまった。
彼の立場は、エルナーのような左寄りの学者の評では、「擬似(quasi)新自由主義」ということになる。後にカルデラ政府が大規模民営化路線に転じたときにも、市場に従えと主張して、売り渡し先の企業に条件を付けようとする政府を批判した。[Ellner 1998]
しばらくアメリカ合衆国に住んでいたが、1998年大統領選挙のため前年に帰国した。しかし党内の支持を得られず、独立系として立候補した。小政党の「刷新」が後援した。 ペレスを戴く開放や、社会主義運動からの支持のとりつけに動いたが失敗し、「刷新」単独からの大統領候補になった。 1997年まではイレネ・サエスに次ぐ有力候補だったが、しだいに支持率が低下して4位の候補に後退した。候補乱立はウゴ・チャベス当選の可能性を高めると判断し、夏に候補をとりさげた。議会選挙で刷新が惨敗したため、議会にも足がかりをもてず、野に下るしかなかった。
1999年憲法制定会議議員選挙では無所属で立候補し、今度は刷新と開放の後援を得て、当選を果たした。新憲法は、分権化をすすめるものでなければならず、制定会議は保健・教育等の社会保護を強めるために働くべきだというのが当選時の弁であった。 議員としては制定会議の全権掌握や超憲法的人事権行使に反対したが、多数には勝てなかった。2000年選挙については、制定会議議員として、裁判所に制定会議による選挙管理委員任命の無効を申し立てたが、3月29日の判決で退けられた。
新憲法による2000年の大統領候補には、「遭遇(Encuentro)」なるまた別の小党から立った。今回は選挙戦のはじめから弱小候補とみなされ、支持率は低迷し、惨敗を喫した。
それでもめげず、2004年地方選挙では民主行動に復党し、カラカス大都市地区の市長に立候補した。この選挙では与党のフアン・バレト当選が磐石と見られており、誰もあえて対抗馬に名乗り出ようとしなかったという事情がある。当然ながらフェルミンは再び敗れた。
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