カルロス・アンドレス・ペレス
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Carlos Andres Pérez
民主行動の政治家で、2度にわたってベネズエラ共和国大統領(1974-1979, 1989-1993)を務めた。頭文字をとって CAP とあだなされる。後に汚職で大統領から下ろされ、党からも追い出された。
1922年にタチラ州に生まれた。民主行動に入り、ロムロ・ベタンクール政権の内務大臣として、1960年にはじまった左翼ゲリラの鎮圧に豪腕をふるった。この経験で、同党右派の政治家として台頭した。
1973年に、ベタンクールら28年世代に交代した若手政治家として都市大衆にカリスマ的人気を得て、大統領に当選した。政権では彼の人脈である経営者たちと、従来から民主行動が持っていた労働組合への影響力を活用し、政労使の協議制度を整備した。しかし自党の幹部たちに対しては冷淡であった。
第一次ペレス政権は幸運だった。就任時から石油価格の高騰がはじまり、ベネズエラは空前の石油ブームに突入した。ペレス政権は野放図な外貨の流入による国内の撹乱を警戒しつつ、この資金を工業に投資して経済発展を図った。鉄鋼生産の拡大のために投資し、電力供給を増やし、農業を近代化するなど各分野での経済発展を図った。とりわけ大きな業績として、外国企業に握られていた石油産業を国有化した。
また、石油の富を背景に活発な第三世界外交を展開した。南米の大国ブラジル・アルゼンチンをはじめ南米のほとんどが権威主義の手に落ちた時代にあって、ひとり民主主義を守り抜いたこともあり、ベネズエラの地位はかつてなく高まった。
しかし、収入が増えたにもかかわらず、最後にはブームにのって膨大な対外債務を積み上げた。1980年以降ベネズエラが長期不況に突入し、債務危機の重圧で苦しんだ原因は、この時代にある。
しかし、国民には1979年までのペレス政権が繁栄の時代として記憶された。ペレスはそうした期待を受けて、1988年に大統領に再選された。1989年に就任したペレスは、経済停滞を打ち破る策として、極端な緊縮と徹底した構造改革をとることにした。「大転換」と名づけられたこの政策は、ペレスに票を入れた有権者には予想外のことであり、裏切りと感じられた。就任直後に公共料金を大幅に値上げしたところ、首都で暴動がおきた。カラカソと呼ばれるこの暴動を、ペレスは軍隊を投入して鎮圧した。この事件は、ペレスのイメージを決定的に傷つけた。
ペレスは、自分が変わったのではなくベネズエラをとりまく環境が変わったのだと釈明した。確かに、一期めのペレスも二期めのペレスも、経済政策では財界の意を迎えた。また確かに、内務大臣のペレスは左翼ゲリラを、二期めのペレスは民衆暴動を、ともに軍事力で弾圧して体制を守り抜いた。しかし国民は財界人脈と弾圧手法のペレスではなく、石油ブームと対話手法のペレスを支持したのだ。裏切りという指弾もまた正しかった。
ペレスはこの政権期にも自党の意向を無視した。前回と違うのは、ペレスの政治的資産だった財界人脈と大衆人気のうち、後者を完全に失っていたことだった。1992年2月、陸軍中佐ウゴ・チャベスがペレス打倒をもくろんで反乱を起こした。11月にも別の反乱がおきた。反乱は失敗したが、体制安定を誇りにしていたベネズエラ人には衝撃があった。かつて、民主化直後の1958年から1960年代初めに軍部の反乱がおきたときには、労働組合がゼネストをうち、首都ではデモが政府を支持したのに、今回ベネズエラの民衆はまったく動かなかったのである。カラカソの暗い記憶は、民衆にペレスを守る気をなくさせるのに十分であった。
ペレスの経済政策は、いちおうはうまくいった。1989年には緊縮政策のためにベネズエラの経済は激しく縮小したが、翌年から成長率がはねあがり、10年来の本格的好景気が訪れた。しかし、新自由主義政策による繁栄は貧困層の上を通り過ぎていき、大衆の生活は改善されなかった。
中道左派の民主行動からはペレスの政策への批判がやまず、敵であるばすのコペイがむしろ政府の政策に近くなった。もちろん左翼政党も厳しく批判した。そうしたときに、公金流用の疑惑がうかび、ペレスは孤立無援におちいり、1993年に任期途中で大統領をやめさせられた。
民主行動からも追放されたペレスは、第2期政府の部下を率いて「開放」という政党を旗あげした。しかし1998年選挙で開放は惨敗した。自らは1999年の憲法制定会議選挙に出馬したが、ここでも落選した。それ以後は折々に新聞に登場して、チャベス政権に手厳しい評論を加えている。
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