エンリケ・サラス・ロメル
出典: Suzutayu's「べネズエラの政治」
Henrique Salas Römer
カラボボ州知事
1936年4月17日、カラボボ州の港町プエルトカベジョで生まれた。合衆国に留学し、イェール大学の経済学部を卒業した。カラボボ大学で経済学教授の後、戦略研究所を創設、主宰した。
1983年からコペイの下院議員。1989年の州知事選挙制導入のときに、コペイと社会主義運動の支持でカラボボ州知事に立候補して当選した。1993年、カラボボ計画なる新党を作って再選を果たした。州では絶大な人気があり、無党派知事、州知事会会長として全国的にも知られた。1996年からカラボボ州知事は息子のサラス・フェオに任せた。
1998年選挙
サラス・ロメルは1998年大統領選挙に向けてベネズエラ計画を作り、「政治と行政の分権化、ベネズエラ国家の非政党化、都市と農村の住民の非周縁化」の3つを基本的公約に掲げた。
選挙キャンペーンの開始時にはわずか数パーセントの支持率しかなかったが、世論調査でじりじりと支持率を上げ、夏までにイレネ・サエスを抜き去ってウゴ・チャベスに継ぐ2位候補になった。この間、チャベス台頭に危機感を感じた政党や候補から連携の打診を受けたが、政党批判の立場を保ち、傲満とさえ言える態度でことごとく拒否した。サラスによれば、政党の選挙マシーンがカラボボ州知事選挙で大敗した事実と、昨年以来の世論調査の結果からみて、政党組織は戦術的に不必要であるばかりか有害でさえある。彼が繰り返し述べるところによれば、サラスは古い政党や政治組織と完全関係を断った変革を代表し(対イレネ・フェルミン・アルファロ)、かつ民主主義を擁護する(対チャベス)唯一の候補なのだった。
経済的には開放と並んで新自由主義の立場に立ち、その支持基盤は高所得層にかたよっていた。政策面でも石油部分民営化を打ち出した。中産階級を称え、その没落を憂えた。その延長で貧困対策を語ったが、貧しい人々に支持を求めるのではなく彼らを「問題」扱いする姿勢を隠さなかった。
秋になるとイレネの凋落、アルファロの伸び悩みが明らかになり、チャベスとサラスの一騎打ちの様相がはっきりした。大統領選挙の直前の11月になって、危機感を募らせた民主行動とコペイが一方的にサラス支持を決定する事件が起こった。サラスは、支持は歓迎するが話しあうつもりはない、との立場を保って、選挙の日を迎えた。
結果的には、サラスは得票率40%でチャベスに敗北した。敗北とはいえ、全国基盤のない候補によるこの得票は、サラス個人にとって政治的にはほとんど勝利と言えなくもない。とりわけこれが、他党からの支持申し入れをはねつけるような、通常の政党政治の感覚からは非常識な態度の結果だとすれば、なおさらである。ベネズエラにおける政党批判の強さを思い知らされる。
野党指導者
サラスとベネズエラ計画は、カラカスから首都まで支持を伸ばし、中堅勢力として存続した。しかし1998年の得票率40%からは後退つづきで、反撃の兆しは見えない。追い討ちをかけたのが2004年地方選挙だった。前年の国民投票でチャベスが続投を決めた直後だったため、サラス・ロメルは危機感を抱き、息子のフェオに代わって自ら立候補したが、落選した。
1999年から2005年まで、チャベスの前には次々に新しい反対派指導者が現れては敗れ去った。その賞味期間は1年かせいぜい2年。ベネズエラ計画が議会に議席を保持しているおかげで、サラスが有力政治家の地位から滑り落ちることはなかったが、サラス大統領待望の気分はなくなった。
2004年州知事選挙は、チャベス罷免国民投票での野党敗北の直後に実施された。国政選挙の逆風を受けて野党の劣勢は明らかである。サラス・ロメルは危機感を抱き、息子にかわって自らがカラボボ州知事選挙に立候補した。しかし敗れた。個人人気でもっていた指導者にとって、選挙での敗北はつらいところである。
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